対馬では陶山訥庵とともに有名な江戸時代の偉人が、孝行芋の原田三郎右衛門ではないだろうか。
耕す平地が少なく、さらに稲作に適した土地が少ない対馬。かろうじて朝鮮半島との交易で得る穀類によってその不足分を補っていた。しかし、江戸時代に入ると藩は朝鮮半島との自由な往来を制限。米麦の輸入は滞り、いよいよ対馬は慢性的な食糧不足に陥った。
その状況を打ち破るべく、藩の要職にあった陶山訥庵は「琉球芋(サツマイモ)」の栽培を藩に提案した。1715年(正徳4年)に藩は「琉球芋」の種芋1,300個を手に入れ、全島に配分し栽培させたがことごとく失敗。翌正徳5年、原田三郎右衛門が久原で栽培に成功すると、藩は彼を技術指導者として村々を回らせ、栽培法の普及に努めた。