対馬全カタログ「村落」
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2021年2月1日更新
厳原町
小茂田
【こもだ】
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元寇主戦場となったのは
西海岸随一の
入江だったからか
対馬といえば、
 対馬という名が日本史に登場する機会がもっとも多いのが、鎌倉時代の元寇においてではないだろうか。特に最初の文永の役ではその被害が甚大で、守護代・宗資国(そうすけくに)らの壮絶な戦いぶりがあっただけに、その侵略は文字になる機会も多い。対馬という名が世界史に登場するのは日露戦争の日本海海戦の方が圧倒的に多く、戦いの名も対馬沖海戦というらしいのだが、日本史ではやはり元寇なのだ。
 ただ、2020年7月に発売されたゲームソフト『ゴースト・オブ・ツシマ』のおかげ、といえばいいだろうか、世界からも「元寇の対馬」というイメージで見られるようになるかも知れない。
天然の良港ゆえの災いか  
 元寇直後の日本側の記録では、小茂田浜ではなく佐須浦となっている。江戸時代の干拓で埋め立てられてしまったが、かつて佐須浦は大きな入江で、西海岸の重要な港だった。約400mもある砂洲が朝鮮海峡の荒波を防ぎ、入江内は遠浅ではあったが佐須川の河口付近は天然の良港だったに違いない。佐須の名もやはり砂洲からなのだろう。しかし、おそらくそれが災いしたのではないだろうか。
小茂田浜(2003年)
壮絶! ! 80余騎 対 1000
 900艘の船団で攻めてきた蒙古軍は高麗軍を従えていたので、対馬の地理にも明るかったに違いない。荒磯の多い西海岸では、大部隊が上陸するのにどこがもっとも適しているかも、十分にわかっていた。佐須浦をおいて他にはないのだ。銀山を狙ったのではないか、という説もあるが、どうだろうか。
 1274年(文永11年)10月5日、知らせを聞いた宗資国は68歳の老体で馬を駆り、主従80余騎で佐須浦に急行。翌6日早朝に戦いは始まり、約1000人の蒙古兵を相手に奮戦するが午前9時頃には終わったという。小茂田浜には元寇古戦場として石碑や小茂田浜神社が設けられているが、実際の戦いの場はもっと奥の金田原か、下原あたりと言われている。資国の首塚、胴塚も下原よりさらに奥にある。
資国を祀った小茂田浜神社
 元寇・文永の役で戦った人たちの霊を祭った小茂田浜神社は、明治の初めごろまでは軍大明神(いくさだいみょうじん)と呼ばれていた。村人が資国が戦死した辺りに小さな祠を建てて祀っていたのが始まりで、資国の曽孫にあたる経茂が今の場所に遷し、以後宗家が代々祀ることとなった。
 祭神はもちろん宗資国。毎年11月第2日曜に大祭が行われ、鎧兜をまとった武者を先頭にして「武者行列」、御旅所では神事と弓射りが行われる。
小茂田浜神社
2020年8月に建立された宗資国騎馬像
厳原一おいしいお米が食べられない
 1884年(明治17年)の『上下県郡村誌』によると、小茂田の物産として、米16石5斗(上等)、大麦200石(中等)・・・とある。この時代に米が上等というのは、対馬では極めて珍しく、厳原町内では小茂田だけだった。量だけでなく質の追求に情熱をもって稲作を行っていたことがわかる。
 そんな小茂田の米が収穫できなくなった時期がある。東亜亜鉛対州鉱業所による重金属汚染だ。1973年(昭和48年)の閉山後に問題になり、全国ニュースにもなった。その後、汚染された水田をもとに戻すために壱岐からの客土で土地改良を行い、 現在も汚染が起きないように監視機関(事務所)を置いているという。
 小茂田ライスセンターには「土地改良記念之碑」と、亡くなった後に調査のために解剖された方々を悼む「追悼の碑」が建てられている。
【地名の由来】 かつてこの辺りには鉱山があり、地名を金田と書き「かむだ」「こむだ」と呼んだ。それが訛って「こもだ」となり小茂田の字が当てられたという説。沼地に自生するイネ科の植物マコモ=菰が群生していたところから「菰田」→「小茂田」という説。いろいろある。
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