1884年(明治17年)の『上下県郡村誌』によると、小茂田の物産として、米16石5斗(上等)、大麦200石(中等)・・・とある。この時代に米が上等というのは、対馬では極めて珍しく、厳原町内では小茂田だけだった。量だけでなく質の追求に情熱をもって稲作を行っていたことがわかる。
そんな小茂田の米が収穫できなくなった時期がある。東亜亜鉛対州鉱業所による重金属汚染だ。1973年(昭和48年)の閉山後に問題になり、全国ニュースにもなった。その後、汚染された水田をもとに戻すために壱岐からの客土で土地改良を行い、 現在も汚染が起きないように監視機関(事務所)を置いているという。
小茂田ライスセンターには「土地改良記念之碑」と、亡くなった後に調査のために解剖された方々を悼む「追悼の碑」が建てられている。