2024年4月30日更新
厳原町
小茂田
【こもだ】
元寇と鉱害を乗り越え
上等米とノドグロの産地は
観光でも新たな時代へ
対馬といえば、やはり元寇小茂田
「対馬」という名が日本史に登場する機会がもっとも多いのが、鎌倉時代の元寇に関してではないだろうか。特に第1波の文永の役ではその被害が甚大で、守護代・宗資国(そうすけくに)らの壮絶な戦いぶりもあり、日本の歴史上最大級の危機の始まりとして文字になる機会も多い。
「対馬」という地名が世界史に登場するのは、実は日露戦争の日本海海戦の方が圧倒的に多く、戦いの名も海外では「対馬沖海戦」といい、それを題材にした小説のタイトルも、歴史書の書名も「tsushima」だ。しかし、日本史においてはやはり元寇なのだ。
ただ、2020年7月に発売されたゲームソフト『ゴースト・オブ・ツシマ』のおかげ、といえばいいだろうか、これからは世界からも「元寇の対馬」というイメージで見られるようになるかも知れない。
小茂田周辺地図 出典:国土地理院地形図(地名拡大、遺跡・死施設名追加)、長崎県遺跡地図
小茂田浜には元寇古戦場として石碑や小茂田浜神社が設けられているが、実際の戦いの場はもっと奥の金田小学校付近か、下原あたりと言われている。資国の首塚、胴塚も下原よりさらに奥にある。
元寇直後の日本側の記録では、小茂田浜ではなく佐須浦となっている。江戸時代の干拓で埋め立てられてしまったが、かつて佐須浦は大きな入江で、当時、現在のような小茂田浜は存在しなかった。
調べてみると国土地理院では小茂田浜を「浜堤(ひんてい)」としている。「浜堤」とは、波によって打ち上げられた砂礫が、堤状に堆積した地形のことだが、埋め立てた時に波の侵入を防ぐために海側に石垣をつくり、盛り土をしてその上に田畑を西風から守るために防風林を設けたはずで、どこまでが天然の浜堤なのか、外観からはわからない。「浜堤」であることも考慮し、国土地理院の地形図に落とし込むと、下のようになる。
干潮時には波打ち際は大きく海側へ退き、広い潟地が現れる。その潟地と川と河川敷の曖昧な空間が戦場になったのではないだろうか。
元寇当時の佐須浦(あくまでも仮説だが) 出典:国土地理院地形図(昔の海域を着色、施設名追加等)
現在の小茂田の3DCG画像:現在小茂田浜神社が建っている砂州は約400mもあるが、これは1973年(昭和48年)から7年を費やし、江戸時代に埋め立てた田地を開削して船溜りをつくったことによる副産物だ。かつては田畑と繋がっており、砂州ではない 出典:国土地理院ホームページ
『対馬国天保国絵図』で描かれた佐須:元禄時代の絵図と見比べても海岸線は大きく違わない。「師大明神」と書かれているが、これは「小茂田浜神社」の別名 出典:国立公文書館デジタルアーカイブス
1951年の小茂田浜:右端に小茂田浜神社の鳥居が見える 写真提供:宮本常一記念館
砂を入れる前の小茂田浜(2003年撮影):中央に見える屋根が小茂田浜神社の屋根。神社を風波から守るための石とコンクリートの壁があった。元寇の時代にはこのような長い浜は存在していなかった
佐須浦が主戦場になった理由
900艘の船団で攻めてきた蒙古軍は高麗軍を従えていたので、対馬の地理にも明るかったに違いない。主力の船団で攻撃するに値する場所はどこなのか、十分にわかっていた。
対馬の銀山のことは中国でも知られており、1019年には刀伊が佐須浦や銀山を襲ったことも知っていたはずだ。銀山閉山の情報もおそらく高麗には届いていただろうが、その後の銀山に興味がなかったはずはない。西海岸で攻撃目標とするには、佐須浦はやはりベストだったのではないだろうか。
1274年(文永11年)10月5日、国府(厳原)で異国船来襲の知らせを聞いた宗資国(そうすけくに)は68歳の老体で馬を駆り、主従80余騎で佐須浦に急行。夜中の2時後に到着。翌6日早朝に戦いは始まり、約1000人の蒙古兵を相手に奮戦するが午前9時頃には終わったという。
実はこの話が、石清水八幡宮の神官が異国撃退に果たした神徳を強調し、幕府の恩賞を得る目的で作成した『八幡愚童訓』に書かれたものというのは有名な話だが、その前に筥崎宮の社官が書いた『八幡蒙古記』がもとになっているというのはあまり知られていない。
『八幡蒙古記』は、1289年(正応2年)、文永の役の15年後、弘安の役の8年後に書かれ、蒙古襲来に関しては『八幡愚童訓』はほとんどそれをなぞっているだけだ。
筥崎宮の社官である作者は、北九州での戦いは実戦を目の当たりにしたかも知れず、信憑性も高いと思われるが、対馬に関してはどうだろう。
佐須浦が干潮時には干潟があちこちに現れ、大型船が入れないことも知らなければ、国府から佐須浦までどのくらいかかるかも知らない。まして家来たちの多くは国府に住んでおらず、国府から家来の住む村々まで伝達が届き、周辺に住む被官(家来)を集め、戦さ仕度をして国府に集合。あるいは現地佐須浦で合流。これを8時間で完了させたのだろうか。また、筥崎宮の社官はこれらをイメージできただろうか。
対馬で史実、常識として語られている「80余騎」なども『八幡蒙古記』から出ている数字で、実はまったく根拠がない。(国府周辺に80人も馬にまたがる武将がいただろうか?)
さらに『八幡愚童訓』に加え、『元史』「高麗史』「東国通鑑』を参考にしつつ想像たくましく脚色したのが、江戸時代に対馬藩が陶山訥庵らに作らせた『宗氏家譜』だ。「佐須浦」がいつの間にか「小茂田浦」に変わり、この戦いを「小茂田浜の役」と命名。対馬で史実と信じられている多くは、突き詰めれば以上の二つの書に拠っている。
当時の佐須浦での戦いを証明する史料はただ一つ。久根の斎藤家(後に府中に移住)に遺る、先祖である斎藤資定と宗資国が佐須浦の戦いで討ち死にしたことを伝える文書だけだ。そして斎藤資定には20人の被官(家来)がいた。彼らはおそらく馬には乗っていない。他の武将の家来、馬に乗っていない人数を入れると、200人、300人になりはしないだろうか。
実は80騎はもっと少なく、戦った武士の数はもっと多いのではないだろうか。
資国を祀った小茂田浜神社
元寇・文永の役で戦った人たちの霊を祭った小茂田浜神社は、明治の初めごろまでは「いくさだいみょうじん」と呼ばれ「軍大明神」「師大明神」の字が当てられていた。
村人が資国が戦死したと思われる辺り(胴塚や首塚の近く)に小さな祠を建てて祀っていたのが始まりと言われ、資国の曽孫にあたる経茂が今の場所に遷したと言われ、以後宗家が代々祀ることになった、と言われている。
祭神はもちろん宗資国。毎年11月第2日曜に大祭が行われ、鎧兜をまとった武者を先頭にして「武者行列」が行われ、御旅所では神事と、西の海に向かって弓矢を構え、弦を鳴らす「鳴弦(めいげん)の儀」が行われる。
小茂田浜神社(2003年)
2020年8月に建立された宗資国騎馬像
実は「小茂田」の名称が歴史に登場したのは1506年(永正5年)で、それほど古くない。ただし1471年の朝鮮の書『海東諸国紀』に、「さす浦、4処合わせ300余戸」と書かれており、4処は下原、樫根、椎根、そして小茂田であろうというのが定説で、この頃には集落としてそれなりの規模を有していたと考えられている。
このことからも、小茂田は比較的新しい村で、1506年(永正5年)の文書では「こもたのかま」という文言で登場することから、塩竃があり、つまり製塩業が営まれており、塩を朝鮮や九州に売ることによって生計を立てていたことが想像できる。
1319年(元応元年)に対馬守護職(太宰府在住)の少弐氏から、対馬の新設の塩竃から年貢を徴収するように、という指示書が発給されており、この頃はすでに島内各浦で製塩業が軌道に乗っていたことがわかる。弘安の役の1281年からまだ38年、村々は元寇からの復興を、当時新しい産業として登場してきた製塩に託していたのではないだろうか。
小茂田でいつから製塩がはじまったかの記録はないが、製塩も佐須浦復興において大きな役割を果たしたのではないだろうか。
江戸時代初期、1638年(寛永15年)の小茂田の村高(村の生産高)は23石だった。しかし、その約60年後の1700年(元禄13年)の物成(年貢)は90石。物成が収穫の1/4とすると、収穫量は360石。60年で15倍。この驚異的な伸びは、耕作地の拡大なしでは達成できない。
対馬藩は1671年(寛文11年)に田畑開発の奨励措置を決定し施行。1677年(延宝5年)には、さらに開発者のモチベーションを高めるために優遇策を強化した。その結果、小茂田では潟地を埋立てて田にする開き(干拓)が盛んになり、米麦の収穫量は飛躍的に増えた。
おそらく20年から30年ほどで佐須浦の風景は大きく変化したのではないだろうか。1700年(元禄13年)に完成した『対馬国元禄国絵図』を見ても、海岸線は現代とほとんど変わらない。元禄時代中頃、17世紀末には小茂田の干拓はほぼ完成していたと考えられる。
『新対馬島誌』に、「貞享元禄の頃(1680年代から90年代にかけて)、田代の人が小茂田村の斎藤氏の海田を開いた」とあるが、「海田」とは海の近くの田という意味だろうか。それとも湿田ということだろうか。
この小茂田村の斎藤氏とは、久根の斎藤氏の分家(つまり文永の役、佐須浦で討死した斎藤資定の子孫)。1700年(元禄13年)に知行を得ているところから、おそらくあの開田と土木で有名な斎藤四郎治の叔父にあたる人物で、この開きによって得た田を知行として1700年に給人になったのではないかと思われる。そしてその一帯は「斎藤原」と呼ばれており、久根浜の「斎藤原」より20年以上早く誕生した。(想像をたくましくすれば、この干拓を見て、四郎治は土木に興味を持ったのではないだろうか)
小茂田で開きを行ったのは斎藤氏以外にもいるだろうが記録がない。とにかく広大な潟地が田畑になり、1700年には360石の米麦が収獲できるようになった。
幕末期の文久時代の米麦の収穫量が350石。年によって豊凶があり、一概に元禄時代より収穫量が減っているとは言えないが、元禄時代に小茂田の開きはほとんど完成しており、あとは山で木庭作あるいは山畑作をし、孝行芋やそばを収穫して食糧増産に努めたということではないだろうか。
1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』
物成約90石、戸数30、人口131、神社1、寺1、給人1、公役人19、肝煎1、猟師6、牛7、馬28、船6
(「給人1」とあるが、これは斎藤氏ではない。斎藤氏はこの統計の後に給人になっている)
1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦350石、家45、人口241、男100、女110、10歳以下31、牛46、馬65、孝行芋920俵
1884年(明治17年)の『上下県郡村誌』によると、小茂田の物産として、米16石5斗(上等)、大麦200石(中等)・・・とある。この時代に米が上等というのは、対馬では極めて珍しく、厳原町内では小茂田だけだった。
対馬では良田づくりに対馬藩田代領(現佐賀県鳥栖市)の百姓が大いに力を発揮したと言われているが、それは小茂田でもあったようだ。前述の「田代の人が小茂田村の斎藤氏の海田を開いた」とされている件だが、資料によっては「湿田を改良した」と書いているものもある。
新たに田を開くだけでなく、確かな米作りが行えるように農業技術も教えたという田代の農民たちによって、おのずと量だけでなく美味しい米(質)へのこだわりも伝わった。それが“上等米”の出発点だったのではないだろうか。
そんな小茂田の米が収穫できなくなった時期がある。東亜亜鉛対州鉱業所による重金属汚染(カドミウム汚染)だ。1973年(昭和48年)の閉山後にメディアに大きく取り上げられ、全国ニュースにもなった。その後、汚染された水田をもとに戻すために壱岐からの客土で土地改良を行い、 現在も汚染が起きないように監視機関(事務所)が置かれているという。
小茂田ライスセンターには「土地改良記念之碑」と、亡くなった後に調査のために解剖された方々を悼む「追悼の碑」が建てられている。
小茂田港は1939年(昭和14年)、東邦亜鉛対州鉱業所(旧社名:日本亜鉛KK)が樫根地区において鉛、亜鉛の採掘に着手して以来、鉱石の積出港として脚光を浴びることになった。昭和20年代に県費を費やして整備されたが、1973年(昭和48年)に同鉱業所の閉山によりその役目を終えた。
鉱石積出港として整備された小茂田港だったが、避難港としての役割もあり、また漁船の利用も多いため、1980年度(昭和55年度)より28年計画で「小茂田港小型船だまり整備事業」がスタート。小茂田神社裏の農地を掘り込み、 河川からの土砂の流入及び波浪の影響を受けない船だまりをつくり、物揚場や浮桟橋なども整備された。
2007年度(平成19年度)に最後の防波堤が完成し、プロジェクトは完了。小茂田地区の主産業である漁業の発展をバックアップする現在の港の形が完成した。
離島振興法の制定などで対馬にもさまざまな恩恵をもたらしている民俗学者の宮本常一が昭和26年に対馬を調査した時に、佐須川河口から北側の海域ではイワシが獲れなくなったと、イワシを干しながら地元の人が対州鉱山からの排水による鉱害を疑っている会話を耳にした。閉山になる20年も前から地元の人は鉱害についてなんとなく気がついていた。
その後、鉱山が閉山すると海の方も通常に戻ったようだ。イワシの資源量は減少と増加を繰り返しながらも、資源状態は安定しているという。
しかし、現在小茂田にはイワシを獲る漁師はいない。肥料としての需要がないからだ。
小茂田浜のイワシ干し風景(1951年):小石で地割りした干し場にイワシを置いていく 写真提供:宮本常一記念館
現在、小茂田浜の花形魚種は「ノドグロ」だ。標準和名は「アカムツ。対馬でも「アカムツ」で通っている。
「ノドグロ」という呼称が一般的になったのは、2014年に日本人テニスプレーヤーが全米オープンで準優勝した際のインタビューで発した「ノドグロが食べたい」というひと言がテレビを介して広く認知されてから。その直後からノドグロの価格も跳ね上がり、今では「ノドグロ」と言った方が一般の人にはわかりやすいという。なお、「ノドグロ」は日本海で呼ばれる名称だ。
アカムツが生息している水深は200m前後で、「水深海」と呼ばれる水域。そこはアカムツの他に、クロムツ、アラ、アマダイ、キンメダイなどの高級魚と言われている魚が生息する、かなり魅力的な水域であり、対馬のいくつかの漁協は2005年(平成17年)頃からアカムツ漁を積極的に展開してきた。
対馬のアカムツ漁は延縄という漁法で行われている。延縄とは、一本の幹縄に数多くの枝縄を付け、その枝縄の先端にエサと釣り針を付けた漁具のことで、それを海中に垂らし、食いついた魚を釣り上げる。
アカムツの良し悪しはまず漁法によって判断され、上から「釣りもの」、「底引きもの」、「刺し網もの」の順で評価が決まる。「釣りもの」は、延縄漁で獲る魚のことで、比較的魚体も大きく、傷が付くのは口だけで魚体の傷みもなく、輝いた状態で獲れるそうだ。次ぎに産地だが、対馬産アカムツはかなり評価が高く、高値で取り引きされ、東京の料亭や高級和食料理店でも高級食材として扱われている。
アカムツは小茂田以外では、豊玉町水崎と上県町鹿見で多く水揚げされ、3港とも水揚げ金額の8割がアカムツと言われている。
小茂田の厳原漁業協同組合佐須支所では主に延縄(はえなわ)漁でアカムツ、一本釣漁ではサバやイサキなどが水揚げされており、佐須産ブランドをアピールするためにホームページやブランドマークを作り、全国に向け積極的に発信している。
なお、小茂田産のノドグロは、佐須支所のホームページからも購入でき、さらにamazon payも使用できるので気軽に注文することができる。
季節ごとの魚の旬(厳原町漁協佐須支所のホームページより)
◎小茂田遺跡:縄文時代の遺物包含地だが、場所が佐須川の河口部右岸(地図参照)の標高4~5mのところで、発見されたのは黒曜石剥片のみ。移動の途中か、漁労時の一時上陸ではないかと考えられている。
【地名の由来】 かつてこの辺りには鉱山があり、地名を金田と書き「かむだ」「こむだ」と呼んだ。それが訛って「こもだ」となり小茂田の字が当てられたという説。沼地に自生するイネ科の植物マコモ=菰が群生していたところから「菰田」→「小茂田」という説。いろいろある。
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