対馬全カタログ「村落」
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2023年4月19日
豊玉町
小綱
【こづな】
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対馬で一番美しい夕景も
この村の人たちにとっては
いつもの風景だ
小綱の最大の特徴は、沖に浮かぶ「綱島」
 「綱島」は、綱浦の浦口を覆うように並ぶ5つの島の総称だ。北の方から、神ノ島、中ノ島、榎島、カノ島(地の香の瀬)、ツワ島(沖の香の瀬)。
 この島々の向こうに沈む夕陽を綱浦から眺める景色「綱島の夕景」は、対馬で最も美しい夕景として知られ、「長崎新観光百選」にも選ばれている。
 最近は、南端のツワ島のシルエットがゴリラの横顔にも見えることから、ツワ島を「ゴリラ島」と呼んで盛り上がっているようだ。
 また、網島には白椿の群生があり2~3月に開花し、美しい風景が楽しめるそうだ。
季節によって日の入りの位置が変わり、見る人を、撮影者を楽しませてくれる
綱浦を守る自然の防波堤のような綱島。出入りは島や瀬を避けながら大きく回り込まなくてはならない
おそらく弥生時代からの村
 小綱周辺で古代の遺跡らしきものといえば、大綱の裏山から銅剣12本が出土した「大綱遺跡」と、現在は確認できないものの、綱島最北の神ノ島に江戸時代にはあったといわれている祭祀遺跡「波牟加伊恵比須」の祭壇の二つだけだ。
 しかし、ここはその地形からして、おそらく弥生時代以前からの村ではないかと考えられている。
 沖の荒波を和らげてくれる網島、風待ちの港として好適な奥深い浦、そして故人を埋葬するのに適した岬もある。弥生人が見逃すはずはない、というのが専門家の意見だ。
小綱周辺地形図:綱4村(小綱・大綱・志多浦・銘)は、歴史的な繋がりも深く、さまざまな場面で協力し合った  出典:国土地理院地形図(地名拡大)
「十五人当番」とは?
 1560年(永禄3年)発給の小綱関連の中世文書の中に、「十五人当番」という役職名らしきものが登場し、それを務めた給人を島主がねぎらうという内容のものがある。おそらく倭寇対策、密貿易対策として設けられた海上警戒や情報収集のための警護団のようなものではないかと考えられている。
 「文引」(渡航許可証)を小船越で発行するという制度が15世紀前半に始まって以降、1460年には発行業務が佐賀に移ったものの、朝鮮通交には文引を携行しなければならなかった。十五人当番は綱島沖を通る船の文引の確認なども行っていたのではないだろうか。
 当時は「偽使」が横行した時代であり、偽使は島主によるものが多かったことがわかっている。島主による偽使かどうかで対応を変えたのかも知れない。
 また、綱浦は欠乗り(後述)の港という性格から、緊急対応する給人や足軽たちは他郷の給人に比べると負担が大きかった。そのために当番制にして負担の軽減を図ったとも考えられる。
綱浦番所。別名「御茶屋」
 1672年(寛文12年)に対馬海峡と浅茅湾を結ぶ大船越瀬戸が開通すると、浅茅湾を抜けて朝鮮に向かう船を管理するために、佐須奈に関所「船改番所」が置かれた。それまでの鰐浦の関所は冬季のみとなり、佐須奈が朝鮮往来のメインの関所となった。
 朝鮮と対馬を行き来する船はすべてどちらかに寄港しなければならなかったが、海や風の状態で二港に入港できないこともあり、避難用の港として綱浦が利用されることが多かった。そこでそのような時のために1687年(貞享4年)、小綱に「綱浦番所」が設置された。
 江戸時代、急な天候悪化等により関所まで航行できない船を「欠乗り船」といったが、航行の多い毎年3月から9月までは「欠乗り船」も多く、番所に綱浦御目付が派遣された。
その期間以外は、「欠乗り船」の入津を確認すると、府中に飛脚を送り、船改人の到着をもって積荷等を検査した。
 また、番所は藩主の田舎下りの宿という目的もあったため、「御茶屋」とも呼ばれたそうだ。
赤い丸で囲んだ辺りが番所跡。現在は碑が建っている
「大綱」との関係はフラット
 『海東諸国紀』によると大綱・小綱を合わせて100戸余となっている。その頃は大・小一体だったかといえば、そうではなく、既に大綱と小綱は別れていたようだ。また、どちらかが親村ということでもなく、いつ頃別れたかを記した史料はないが、その頃は大綱の方が家数も多く、大きかったのではないだろうか。
 綱島の磯の権利がいつ頃に確定したかはわからないが、権利が大綱にあるところから、大綱の勢いのある頃に決定されたのではないかと推察できる。
    ただ、元禄の頃には、人口は大綱の方が多いが、家数は小綱の方が多く、規模としては拮抗していたようだ。

小綱
1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』 
物成約56石、戸数34、人口127、神社1、寺1、
給人3、公役人11、肝煎2、猟師2、牛18、馬7、船9

1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦419石、家29、人口154、男81、女55、
10歳以下18、牛27、馬1、孝行芋1,820俵

大綱
1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』
物成約83石、戸数25、人口148、神社1、寺2、
給人2、公役人17、肝煎2、猟師12、牛18、馬13、船6

1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦318石、家25、人口122、男57、女49、
10歳以下16、牛22、馬9、孝行芋1,540俵
低く細長い稜線の南側(右側)が大綱。岩盤を開削してつくられた道路が2地区を結ぶ唯一の道路。開削した一帯を「切り通し」といい、地名化している
小綱で起こった島主自殺に至った大事件
 小綱は村瀬姓が多い。天保元年の分限帳に記されている小綱の給人6人全員が村瀬姓だ。元寇の時に防備のために渡島したと言われる伊予河野氏が小綱に住み、後年、村瀬姓を名乗ったことによる。
 その河野氏が村瀬姓に変わる前、室町時代晩期、1526年(大永6年)、当時の島主・第13代盛長の時、盛長の同腹異父の兄である饗場平兵衛を小綱の給人 河野平左衛門が討ったという大事件が発生した。
 島主盛長は政(まつりごと)を饗場平兵衛に任せており、河野平左衛門が私事の理由で平兵衛を討ったことをクーデターと勘違いして自刃したと言われていたが、どうもそれは勘違いではなく、クーデターであったろうというのが最近の研究者たちの見解らしい。
 その後の事件の顛末は、史料によっていろいろで、平左衛門が家臣団に討たれたいうストーリーもあれば、名前を変えて隠居したというのもある。
 また、近くの多田浦に移った河野氏は多田氏に名字を変え、その後貝口に移り、河野姓に復したとある。
 いずれにしてもこのような大事件を起こしていながら家が断絶しなかったのは、やはりクーデターであった可能性が高いと考える一因となっているようだ。
事件のショックで河野平左衛門の娘が綱島で投身自殺をしたとも言われているが、別説では、権力者にみそめられたものの相思相愛の男との仲を引き裂かれることを拒んでの自殺とも。この事件に関しては様々なストーリーがある
国をも巻き込んだ高麗仏盗難事件
 2012年(平成24年)10月9日、小綱の観音寺から県指定の文化財「銅造観世音菩薩坐像」が韓国人窃盗団に盗まれたという事件が発生した。ニュース情報番組はもちろん、ワイドショーなどで取り上げられ、対馬に多くの関心が寄せられた。
 翌年2013年1月に窃盗団は逮捕されたが、仏像体内に収めてあった結縁文に「高麗国瑞州浮石寺」と記されていたため、かつて浮石寺に安置されていた仏像で倭寇によって盗まれたもの、と浮石寺が主張。韓国の裁判所も、韓国政府に対して日本への移転を差し止めるよう仮処分を出し、外交問題に発展している。
 現在の観音寺住職 田中節竜氏は韓国大田高裁で行われる裁判に出席。所有権を主張し早期返還を訴えている。
【地名の由来】 浦のことを「奈」と呼ぶ俗語文化があり、ここは沖に綱島があり港に最適だったので港の意の「津」を前に置き、「港の浦」→「津の奈」→「津奈」→「綱」になり、集落を2つに分ける際に、大と小という対語を使ったことによる、という。
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