2024年11月19日更新
上対馬町
琴
【きん】
琴崎の神に守られし村は
大イチョウで知られ
かつてアグリ網漁で賑わう
旅漁師によるアグリ網漁の基地として
民俗学者宮本常一は『私の日本地図/壱岐・対馬紀行』の中で、茂木から琴への山道で休憩し、さらに谷川の水で洗濯もして、リフレッシュできたことを書きながら、琴についてはひと言だけだった。
「琴はアグリ網の基地。」
おそらく宮本常一は琴では休まず、一挙にその日の宿泊地である一重をめざしたと思われる。
「アグリ」を漢字で書くと「揚繰」。巾着のように下を絞って(繰って)揚げるので「揚繰網」というが、全国的には「巾着網」で通っている。
第二次大戦後、島外からアグリ船が対馬に大挙押し寄せた。多くは九州本土からで、それ以外は山口県からだった。イワシとサバをとるのが目的だった。それなりの規模が必要な漁法であり、資金力が必要なので、対馬の漁師は参加しなかった。また、島外の人間に使われるのを嫌がり、イカ釣りに専念したとも言われている。
琴周辺地図 出典:国土地理院地形図(地名拡大・名所追加等)、長崎県遺跡地図
二つの遺跡が語るかつての交易
琴には二つの遺跡があり、時代が少しずれている。古い方の遺跡は「上中原遺跡」といい、「長崎県遺跡地図」の説明によると、古墳時代、中世の遺物包含地。琴川流域の標高5~10m程度の平地で、周囲より一段高くなっている東西130m・南北120mほどのエリアだ。
朝鮮半島の土師器※(4世紀以前)、須恵器※(5世紀以後)の一部が出土しており、古墳時代の集落が想像されるという。また、明時代の染付、中国産と思われる白磁など、中世の外国産の磁器の一部も出土しており、時代が隔絶しているところから集落地の再利用が考えられる。
新しい方の遺跡は「上在家遺跡」といい、こちらは現在の居住地の下一帯だそうだ(地図参照)。古代(奈良時代)から中世にかけての遺物包含地で、出土品は住宅に挟まれた畑から見つかった。こちらは土師器は内黒土師器(保水性を高めるために器の内側だけを煙で燻して黒く仕上げたもの)、須恵器、明時代の染付、高句麗と中国の青磁・白磁が出土。奈良時代から中世までの連続した営みがあったことを伝えている。
※土師器は、たき火で700~800℃程度の温度で焼いた野焼きの土器。粘土が酸化するため、赤茶色をしている。主に煮炊きや食器などに使用された。
※須恵器は、5世紀頃に朝鮮半島から伝わった土器で、ロクロを使って成形し、窯で高温で焼き、青味を帯びた灰黒色が特徴。土師器に比べて硬く丈夫で、保水力にも優れ、主に貯蔵や供膳などに使用された。
浮かび上がってくる、地侍財部氏の経営力
この二つの遺跡から一つの物語を紡ぎ出すと、古墳時代に浦の奥の方で琴村の営みがスタートし、奈良時代になると川が運んできた砂の堆積により水際が遠くなったのか、交易に便利な、海に近い「上在家遺跡」の場所に住むようになった。
1400年頃になると、琴の地侍 財部氏が史料に登場してくる。財部氏の動きが活発になってきたということだろう。1406年(応永13年)と1409年(応永16年)、どちらも塩屋経営に関する島主宗貞茂発給の文書で、財部氏が製塩業に携わっていたことがわかる。
1406年の文書は、財部氏経営の西泊村の塩屋では網漁経営、つまり漁業も行っており、それが行き詰まっていることを伝えている。既にその頃には明や朝鮮半島と交易する貿易商人としての一面もあり、伊那郷の地侍でありながら、豊崎郷の西泊で製塩と漁業を経営するという権利を手に入れるだけの、島主も一目おく経済力を持っていたようだ。
発展によって人口も増えたのだろう、さらに住宅用地が必要になり、かつて先祖が住んでいた「上中原遺跡」の辺りの土地を再活用したと考えられないだろうか。
室町期後半、佐賀経済圏の一翼を担う
伊那郷の侍でありながら、豊崎郡の“大はす(大増か?)”や西泊で塩屋経営を始めた財部氏。そこで作られた塩などを、自ら経営する廻船に載せ、九州や朝鮮半島に渡り、米や綿布、中国由来物品と交換し、それで富を蓄え、私有地を増やしていった。
1467年(応仁元年)頃に、政庁が佐賀から国府(現在の厳原市街)に変わり、対馬の中心が南へ大きく移動した。しかし、経済の移転は簡単にはいかず、それから約100年もの間、佐賀が経済の中心であり続け、貿易のリーダーシップは志多賀の商人や琴の財部氏など伊奈郡の商人たちがとり続けた。それを歴史家は「佐賀経済圏」と呼んでいる。その頃、琴は戸数40戸ほどの村で、芦見100戸、志多賀350戸に比べれば小規模の村だった。(『海東諸国紀』より)
財部氏、貿易商人から侍へ戻る
16世紀後半に「府中・伊奈のこぎおくり」という賦課が設けられた。府中―伊奈郡間の物資輸送の人を、芦見、小鹿、琴の貿易商人に課すというものだ。その頃は府中にも貿易特権を与えられた商人たちが30人はいたそうだが、物資の供給は佐賀経済圏(伊奈郡の商人)に依存していた。
その後、江戸時代になると藩は兵農商分離を徹底させ、商人は府中居住が条件となった。在郷の貿易商=地侍は、商いを諦めて在郷給人として侍に徹するか、商人として府中に住むか、あるいは農民になるかを選択しなければならなくなった。で、財部氏は在郷給人としての侍の道を選んだ。
なお、西泊で塩屋を経営していた財部氏(おそらく分家)は、1568年(永禄11年)に西泊に居宅を給付され、1573年(天正元年)には貿易商人として朝鮮と交易を行ったことが記録に残っている。その後、西泊で給人になった記録がなく、琴に戻ったか、西泊で農民の道を選んだかは不明だ。
江戸時代の琴の食糧事情
貿易が禁止され、漁業も地先以外では禁止された江戸時代の対馬では、府中以外では華やかなことはほとんどなく、農地や木庭を耕し、作物を収穫し、年貢を納めるという営みが繰り返された。
下に記載したの1700年(元禄13年)、1861年(文久元年)の琴の記録でみても、戸数は室町時代と変わらず、江戸時代を通して大きな発展がなかったことがわかる。
この二つの記録をもとにして計算し、江戸時代の琴の食糧事情の変化を推測してみると、160年で米麦の収穫量は31%増だ。
1700年の1年間一人当たり(10歳以上)の食糧としての麦は約0.33石。1日にすると0.92合。同じ年の対馬の平均の約70%だ。
1861年になると1年間一人当たり(11歳以上)0.57石で、1日にすると1.56合となり、その頃の対馬の平均1.8合の約87%。開き(干拓)等によって収穫量は増え、新たに孝行芋(サツマイモ)の収穫が加わり、食糧状況は改善したものの、江戸時代を通して農民の生活は楽ではなかったようだ。
それをいくらか補ったかも知れないのが海の恵みだ。琴崎周辺の海は佐野の延縄船の漁場であり、琴の沖合は好漁場として知られていた。地先の海でもアジ、サバ、ブリ、イカなどが獲れ、1765年(明和2年)に芦見村と共同で鰯網を設置し、収益を得ている。
1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』
物成約58石、戸数45、人口229(10歳以上)、神社1、寺3、給人3、公役人23、肝煎2、猟師24、牛17、馬6、船6
1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦305石、家38、人口215、男80、女98、10歳以下37、牛33、馬28、孝行芋2,080俵
※対馬藩の「物成(年貢)」は収穫量の1/4だが、それ以外に金銭で納める税金「公役銀」を工面するために麦などを売る必要があり、その他の支出も考慮すると、食糧として農民に残るのは収穫量の1/3くらいと考えられている。村によって多少事情が異なるのであくまでも計算値、目安と理解してほしい。
命を懸けた村境、郷境争い
江戸時代の検地は1601年(慶長6年)から始まったが、村の境界を決める際にもめることが多く、検地には時間がかかったようだ。琴村と舟志村の村境(=伊奈郷と豊崎郷との郷境)ももめたらしく、1603年(慶長8年)の村境決定の時に、事件が起こった。
おそらく双方が自分たちの要望を通そうと言い争っていた時だろう、琴村の肝煎藤七兵衛が突然自分の腹を鎌で切って、「自分が倒れた所を境界とせよ」と走り出したのだ。そして、彼の言葉通り息絶えたところが境界になったという。藤七兵衛のお陰で琴村の希望通りの境界線になったそうだ。今そこには「小島藤七兵衛の碑」が建てられ、琴の村人からは恩人として大切にされている。碑の由来として、その礎石に次のように彫られてある。
伊奈郷、豊崎郷の境界争いの時、役人が堂坂の頂上を境界としようとした。琴村の肝煎藤七兵衛が突然腰にたずさえた鎌で腹を切り「我倒れたる地点を境界とせよ」と叫び坂を駆け下る。この皿河内が絶命の地である。役人、立会人もその義気に感じ、この地を境界とした。
江戸時代、8年間だけ銀山があった
琴から舟志に通じる道の枝道奥にかつて琴銀山があった。1667年(寛文7年)に厳原の商人押川善左衛門が他国の商人、喜田源兵衛、稲野九郎右衛門、松井喜兵衛等の協力を得て開発したもので、豊後、薩摩から鉱夫約200人を呼びよせての採掘だった。しかし、埋蔵量が少なかったのか、理由は不明だが、1675年(延宝3年)、僅か8年で停止となり坑夫は全員佐須の銀山に移された。
その後、1698年(元禄11年)に湯浅藤兵衛が銀山願を藩に出したが、却下されたようだ。
第二次大戦後に東洋亜鉛対州鉱山が、亜鉛・鉛目的で古い坑道を採掘したが、昭和40年代に終了。現在坑口は閉鎖されているそうだ。
明治に外来漁民で人口増、今は逆現象が進行中
明治になると、東海岸のほとんどの村がそうであるように、本土の方から多くの漁業者が押し寄せてきた。最初は旅漁師だったが、次第に対馬に拠点を構える漁師が増え、琴にも多くの漁師が移住してきた。その趨勢が数字にも表れている。
1887年(明治20年)から1927年(大正13年)までの40年間に、世帯数52→159、人口304→951と、ともに約3倍に増えている。漁業者だけでなく商業者の増加もあるという。
1878年(明治11年)には、周辺7ヵ村(琴、芦見、一重、小鹿、舟志、五根緒、中原)の主邑として区長役所が置かれ、1908年(明治41年)には7ヵ村がまとまって琴村となり、琴に村役場が置かれた。それから実に77年間、1955年(昭和30年)の上対馬町誕生まで、周辺7ヵ村の中心として役割を果たした。
琴が琴村行政の中心となったのは、7ヵ村のほぼ中心にあることと、やはり人口の多さ=村の規模にもあったのではないだろうか。
そんな琴だが、やはり昨今は世帯数と人口の減少が進んでいる。1980年には世帯数170世帯、人口533人。2000年には世帯数152世帯、人口383人。そして、2020年には世帯数102世帯、人口215人と、対馬のほとんどの地区でみられる、過疎化、少子高齢化による負の相乗効果で、人口が減り続けている。
1950年の琴:移住漁師のほとんどが琴川の東側に住んだそうだ 写真提供:宮本常一記念館
琴のシンボル、琴の大イチョウ
琴の大イチョウは、樹高23 m、幹周が13 mもあり、1961年(昭和36年)に長崎県の天然記念物に指定された。さらに1990年(平成2年)開催の「国際花と緑の博覧会」で企画された「新日本名木100選」に選出された。
対馬では「樹齢1500年の日本最古の銀杏」と言われているが、イチョウは原産地である中国で広く知られるようになったのが11世紀、つまり1000年前であり、樹齢1500年ということはありえない。イチョウが日本に上陸したのが1300年代前半と考えられており、史実と付き合わせると、琴のイチョウが植えられたのは、早くても1300年代後半と考えた方がよさそうだ。樹齢は600~650年くらいではないだろうか。
さらに述べると、寺院の境内にイチョウを植えるという文化が日本に根付いてのことであり、かつてその地にあった江教寺※の建立が先と考える方が妥当だろう。ただし、その江教寺の由緒がわかっておらず、イチョウの樹齢考察の参考にはならない。
老木だけにさまざまな経験をしており、1798年(寛政10年)には落雷にあい、幹は裂けて焼け焦げ、中は空洞に。明治の初めに近くの火事が燃え移ったり、1950年(昭和25年)の台風で主幹が折れたり、2020年(令和2年)の台風では太い枝が折れ、ほとんどの葉が落ち、無残な姿になった。度重なる災いを乗り越え、数カ所重い枝を支柱で支えられてはいるが、大樹らしい堂々とした姿で見る者を圧倒している。
※江教寺(こうきょうじ):現在の長松寺の場所にあった天台宗の寺。現在「長松寺の高麗版大般若経」と言われる大般若経も、本来は江教寺の蔵経。1871年(明治4年)に廃寺になり、その後長松寺と合併復活し、長松寺に統一された。
琴の大イチョウ(2024年11月初旬撮影):老齢化や台風などの災害で樹高は低くなったが、横に広がり迫力満点
海につながる琴の氏神、胡禄神社
琴浦の入口北側に琴崎灯台が建ち、その北東600mほどの所に、外海に向かって伸びた階段と3基の鳥居が並ぶ胡禄神社がある。927年(延長5年)にまとめられた『延喜式神名帳』にも対馬島上県郡の小社として記されており、“小”ではあるが由緒ある“式内社”だ。
中世から近世(江戸時代)までは琴の人々に琴崎大明神と呼ばれ、篤い信仰を得ていた。この神社には土地の人なら誰でも知っている伝説がある。
「昔々、琴村の命婦が3月3日に村人と一緒に磯に降りたところ、波がざわめき神が現れた。ほかの人たちは逃げたが、その命婦は恐れず「もっと小さく軽くなってくだされ」と言ったところ、たちまち小さな金の鱗の蛇と黄金色の石になったので、もっていたショーケ(竹で編んだ容器)ですくい、祀り奉った。」
この伝説がこの神社の由緒でもあり、まさに海の神だった。水中も含め琴崎の磯全体が聖地であり、磐座(いわくら)は海の底にあるとも。
祭神は表津少童命、中津少童命、底津少童命で、この三神は綿津見の神。総本社は金印で有名な福岡市志賀島にある志賀島神社だ。
胡禄神社の祭事を担う、胡禄御子神社
琴の集落から山を一つ越えたところに郷ノ浦と呼ばれる集落があり、浦の奥には胡禄御子神社が建っている。胡禄神社とは親と子の関係と考えられているが、こちらの祭神は、磯武良と、表筒男命、中筒男命、底筒男命という住吉三神となっている。磯武良(阿曇磯良)の祖神は綿津見三神と言われているので、こちらの祭神は少し釈然としないところがある。
胡禄神社は長い間3月3日以外は神域に入ってはいけない神社なので、胡禄神社の月次祭(つきなみさい)などの祭事は胡禄御子神社で行われていた。琴の人々からすれば、胡禄神社をフォローする神社という位置づけなのかも知れない。
【地名の由来】 中世の文書に「きぬ」と仮名書きしているものがあるそうだ。「きぬ」の発音がくずれて「きん」になったのかも知れない。また、そこから「琴」の由来を「こと」に求めてはいけないことは理解できるが、由来として可能性を感じられる説がない。
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