対馬全カタログ「村落」
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2021年4月26日更新
美津島町
鶏知
【けち】
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ここには古の繁栄を
伝える古墳と対馬の新しい
暮らしの風景がある
町の風景が新しい
 平成以後、対馬でもっとも変化が激しかったのが、鶏知を中心とする元美津島町、特にその東側だといわれる。1992年に開局した美津島町営有線テレビ、95年に対馬で初めて誕生した天然温泉、さらに2004年の合併後は対馬病院と、島民の生活を少なからず向上させてきているそうだ。
 対馬縦貫自動車道である国道382号線沿いに大型スーパーやハンバーガーショップなどが並び、対馬ではもっとも今風な光景を見ることができる。コインランドリーが2店というのも、今風ライフスタイルがここに根付いてきたからではないだろうか。
本格的な古墳と県直(あがたのなおえ)
 この町の古の繁栄を示すものに古墳があげられる。鶴の山古墳は古くから「出居塚」の名前で伝えられていた前方後円墳で4世紀後半のものらしい。これから東に2kmのところ、根曽の半島部に前方後円墳が群集しており、根曽古墳群として国指定史跡になっている。
 対馬では本格的な古墳はこの周辺のみであり、これらの墓の存在が、古墳時代(大和朝廷初期)に島を統治した対馬県直(つしまのあがたのなおえ)の鶏知居住の重要根拠となっている。
根曽第2号墳(前方後円墳)の一部
根曽古墳群のある半島
阿比留氏から宗氏への権力移譲
 その後、大和朝廷の対馬統治の拠点である国府は与良、現在の厳原に置かれたが、少なくとも11世紀初頭から13世紀中頃まで、後に藩主宗氏となる惟宗氏に取って代わられるまで、政治の実権を握っていた在庁官人阿比留氏は鶏知に屋形を置いた。
 その交代劇は、日本の権力の中枢が貴族から武士(鎌倉幕府)へ移った時代の流れをなぞるように、武士化した惟宗氏に移ったようだ。比較的最近まで、惟宗氏による阿比留征伐が信じられていたが、文献等を検討するとそこには多分に潤色があることがわかってきた。
 宗氏は武士の時代が終わるまで約600年間も対馬の島主であり続け、阿比留氏は政治の座から降りた後も、鶏知の住吉神社の宮司など島の要職を世襲した。
鶏知の住吉神社
明治後は軍の町として
 厳原市街のベースが、政治と商業だったのに対して、鶏知は軍の町だった。
 1895年(明治28年)、日清戦争に勝利すると、次は対ロシアに備えて海軍の前進基地として浅茅湾の重要性が高まった。1896年(明治29年)、竹敷に海軍要港部が設置され、また、1897年(明治30年)には、陸軍対馬警備司令部が厳原から難知に移った。
 さらに、1900年(明治33年)には、対馬要塞砲兵大隊も難知に移転。同じ年、万関瀬戸が開削されて、浅茅湾と対馬東水道がつながり、鶏知は対馬防衛の中心となった。そして、かつて金田城が鶏知を守るために造られたように、浅茅湾周辺には13の砲台が建設された。そしてほぼ半世紀、鶏知は“軍の町”として町を形成していった。
 国防の最前線となった旧日本陸軍鶏知重砲兵連隊の跡地には碑が建立され、現在の美津島町鶏知中学校の門となった重砲兵連隊の赤煉瓦の門柱が、当時をしのばせる。
重砲兵連隊の赤煉瓦の門柱
鶏知は15行政区の集合体
 鶏知は、行政区としては存在しない。15の行政区(焼松、上の町第一、上の町第二、中の町、日向、本町、瀬原第一、瀬原第二、樽ヶ浜、住吉、宮の下、日の出、大浜、高浜、西高浜)の集合体だ。
 実は『対馬全カタログ』で「村落」としてピックアップしている「樽ヶ浜」も「高浜」も、雞知の一部だ。
 ただし、住居表示としては明確に存在する。雞知15地区の住所は「鶏知甲00番地」「鶏知乙00番地」で表示される。しかも同じ地区の中に「甲」と「乙」の両方がある場合だってあるという。だから雞知で住所を頼りにその場所にたどり着くのはほとんど不可能だ。
 行政区が15あるのは、かつて鶏知村の中に部落が15あり、それを束ねる強い存在があったからだろう。それが、鶏知が本貫地といわれる阿比留氏であろうことは容易に想像できる。阿比留氏は宗氏が現れるまでは、対馬最強の氏族だった。
生活面では対馬の中心
 城下町としての歴史がある厳原に比べると観光要素は少ないが、地理的に島の中心に近いというのは多くの島民にとっては大きなメリットだ。だからこそ大型スーパーやホームセンター、ドラッグストアも厳原よりも鶏知を選び、若い人は暮らしやすい鶏知の近くに住むことを選ぶ。
 今や対馬の暮らしの中心。ますます鶏知の存在感が大きくなっている。
長崎県対馬病院
【地名の由来】 古い文書には「介地」、あるいは「慶地」とあり、「ケチ」という名はかなり古くからのものとされているが、由来は不明。
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