対馬全カタログ「村落」
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2023年1月28日
厳原町
樫根
【かしね】
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佐須銀山から対州鉱山へ。
銀、亜鉛の産地ゆえに
歴史の荒波に翻弄された村
佐須銀山の村、といわれる樫根だが
 室町時代から江戸時代にかけて世界中に知られ、世界が求めた“日本の銀”。その銀を日本で初めて産出したのが対馬であり、その銀山があったのが佐須地方で、特に銀抗が集中したのが樫根領だった。
 江戸時代初期に韓国との交易で栄えたと言われている対馬藩だが、それを支えたのは佐須で採れた銀だった。銀の産出量が減少するにつれて交易が滞るようになると、対馬藩も輝きを失っていったが、それは当然の帰結だったと言える。
 そんな対馬の力の源ともいえる、重要な銀を産出した樫根なのだが、銀が樫根にとってどのようなメリットを生んだのかは、はなはだ疑問だ。
対馬における銀の製錬
 対馬の銀は、674年(白鳳3年)に対馬の国司であった忍海造大国が対馬の銀を貢上したという記録によって、歴史に登場する。貢上された銀は勅令によって、神々に奉じられ、上級の官吏にわかち与えられたという。
 しかし、銀を取り出す精錬技術に関しては長い間不明のままで、1533年の石見銀山での「灰吹(はいふき)法」による精錬が日本最初の銀精錬とされてきた。では、対馬で産出された銀はどのようにして銀となったのか。
 1107年に著された『対馬国貢銀記』にそれに対する答えがあると言われている。下記のような製錬に関する文章がある。
 「斗(ます)にて量り、これを高山の四面風を受くる處に置き、松樹の薪を以てこれを焼くこと数十日、水を以てこれを洗い、計り分けてその率法を定む。其の灰、鉛錫をなす。」
 鉱石(対馬は鉛主体の方鉛鉱)を砕いたものを数十日間加熱し、鉱石の中の鉱物を酸化。銀と鉛の合金が分離して溶け出し、それが固まったものを水で洗い純度別に分けるのだが、対馬での作業工程はここまでのようだ。これはあくまでも「製錬」で、純度を高めていく「精錬」ではない。精錬は納入先である都で行われていたと考えるしかない。※
 石見銀山の資料によると、製錬で得られる銀の含有率は約4割だそうだが、対馬の場合、銀含有の多い部分、少ない部分と、その含有率にバラツキがあり、固まった合金を純度別に分ける必要があった、ということではないだろうか。
 その銀と鉛の合金を、毎年トータルで1,200両=45kg(1両=37.5gで換算)、対馬の調として都に送っていた。

※2007年に、飛鳥時代に都で銀の精錬が行われていたことの根拠となる発見があり、石見銀山より800年以上も前の7世紀後半に同じ原理による精錬法で純度の高い銀を得ていたことがわかった。
『対馬国貢銀記』(『群書類従』第50巻に収蔵)の対馬銀山について書かれたページ   出典:『群書類従』
朝鮮由来の技術者集団か
 飛鳥時代の工房で、坩堝(るつぼ)に用いたと思われる半球状の石器などとともにみつかった銀の粒は、直径5mm・純度約95%だったそうだ。7世紀後半に日本は、対馬と都の連携によって、高純度の銀を産出できていたということになりそうだ。
 その技術をもたらしたのは朝鮮半島から渡来した技術者集団と考えられており、その中の一派が対馬に残り銀山の開発や製錬に携わったと考えられている。
 すぐ近くの丘にある矢立山古墳も時代が重なることから、その集団を率いる長のものではないかという説もある。
海外にも知られ、災いを招いた銀山
 対馬銀山のことは、1345年に完成した中国の史書の一つ『宋史』に、984年、日本国の僧奝然(ちょうねん)が太宗に上げた上奏文に日本国の説明として「東奥州産黄金、西別島出白銀、以爲貢賦(東の奥州は黄金を産し、西の対馬は白銀を産し、もって租税とす)」と書かれている文言が記載されており、海外でも対馬銀山のことは知られていたいことがわかる。
 1019年の刀伊の入寇※は、対馬においては明らかに銀山を狙ったものだった。
 その後、1200年代初めごろに役目を終えた銀山は人々の記憶からも消えたかに思われたが、1274年(文永11年)、佐須は元と高麗の連合軍に襲われるという対馬史上最大の悲劇にみまわれた。
 対馬で佐須だけが狙われた訳ではないが、佐須に大軍が押し寄せたのはやはり銀山があったから、日本を襲うついでにあわよくば銀山占領を、と考えてのことではないだろうか。
佐須銀山、再稼働す
 閉山して一度だけ、1486年(文明18年)に豊後の鉱夫200余人が海を渡り、宗貞国の許可を得て銀山再開発をはかったが、長雨(坑内浸水)のため不成功に終ったと言われている。
 江戸時代になると、各藩は武力より経済力と、産業を強化する方向へと大きく舵をきった。2代藩主宗義成の頃、諸藩の開発熱に影響されたのだろう、中世に廃れてしまった銀山の再開発挑戦を決めた。
 1650年(慶安3年)から数年、さまざまな人物が佐須山から椎根山、久根山に入り、採掘箇所を見つけては、銀の含有率を調べ、採掘を願い出た。(佐須山、椎根山、久根山が具体的にどの山を指すのか資料不足でわからない)
 この頃には精錬技術として灰吹法が普及していたので、含有率検査の確度が高く、鉛33斤で銀15匁、鉛1貫目で銀2匁3分と、銀の含有率の高さが確認された。
樫根の奥に銀山の古坑があり、通称「銀の本(かねんもと)」と呼ばれている
府中千軒、鶴野千軒
 佐須が銀山として有望とわかると、藩は佐須郡を藩の直轄領とし、銀山奉行(かなやまぶぎょう)と目利役(めききやく)を置き、銀の採掘や精錬を管理するようになった。
 採掘場は佐須川流域一帯にあったそうだ。そして、鉱石はすべて下原エリアの鶴野町につくられた精錬場に運ばれ、銀が取り出された。
 精錬場は当時「床屋」と呼ばれ、その周辺には坑夫たちの宿舎も建てられ、 遊女屋などもあったという。「府中千軒、床屋千軒」あるいは「府中千軒、鶴野千軒」と、府中の賑わいに匹敵すると言われるほど、大いに賑わったそうだ。その後、「床屋」は地名になり「床谷」となった。
 銀山最盛期の延宝から元禄初期にかけては鶴野町の人口は1000人を超えたが、18世紀に入ると銀の産出量が急激に減り、1737年(元文2年)、ついに閉山となった。
銀山は樫根に何をもたらしたか
 樫根に銀山はあったものの、樫根の多くの人々の生活は他の村と大差なく、農業中心の営みだった。
 1700年(元禄13年)のデータを見ると、物成が29石ということは生産高が116石で、村人の取り分が87石。これを127人で分けると、一人当たり0.68石と島の平均1.1石よりもかなり少ない。実際は人口に10歳未満は含まれていないので、実際はもっと厳しい食糧事情だったはずだ。
 約160年後、1861年(文久元年)の一人当たりの米麦の量を計算すると0.55石になり、大きく減少している。ほとんどの村が耕作地を増やして収穫量も増やし、人口はほぼ横ばいで一人当たりの量を増やしているのに、樫根は収穫量がほぼ横ばいで、人口・戸数が増えている。かなり特異な例だ。
 これはおそらく、米麦以外の生産でその分をカバーしているのだろうと、1884年(明治17年)の『上下県郡村誌』で調べてみると、蕎麦の生産高が65石と、厳原町では豆酘に次いで2位だった。(豆酘は戸数も人口も樫根の約5倍だから当然といえば当然だろう)
 また、食べ物ではないが木炭の生産も2500斤と多く、厳原町では内山、下原に次いで3位。そこそこの収入になっていたはずだ。
 家数は26戸から40戸と、1.53倍になったが、増加分の多くは現在、経塚、大板と呼ばれる、佐須川奥の小村を開拓し、そこに住んだからではないだろうか。 開拓の主体は給人だが、分家や小作人をそちらに住まわせたのではないだろうか。

1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』 
物成約29石、戸数26、人口127、神社1、寺1、
給人2、公役人12、肝煎1、猟師21、牛3、馬24、船0

1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦125石、家40、人口200、男85、女84、
10歳以下31、牛35、馬58、孝行芋320俵
樫根領の経塚(佐須川左岸):樫根地区からは道のりで4~5km
対州鉱山(東邦亜鉛)へ
 佐須銀山が再び注目されるようになったのは、大正になってからだった。
 大正年間にスイス人C・ファーブルという事業家が鉱山を経営し、銀をベルギーに送ったそうだが、含有量が少なかったのだろう、数年間で廃鉱となった
 その後、鉱業権を取得した白川達彦から日本亜鉛株式会社が鉱業権を買収し、今度は亜鉛鉱山として再スタートすることになった。1941年(昭和16年)に社名を東亜亜鉛株式会社と改め、さらに鉱区を拡張。1966年(昭和41年)9月以降は、月に亜鉛19,000トン、磁硫鉄鉱3,000トンを生産する日本有数の鉱山にまでなり、中学卒業生を対象とした東邦鉱山技術学園を開設した。
 1972年時点で、従業員680人、家族を合わせて約3,000人の対馬最大の企業にまでなり、対馬島民自慢の会社でもあった。
 しかし、1973年(昭和48年)、安い輸入亜鉛による経営の行き詰まりを理由に急遽閉山が決定され、その年の12月に約30年の歴史に幕が下ろされた。
 すると翌1974年(昭和49年)、長年のカドミウム汚染が明るみになり、その後樫根をはじめとする佐須地区は補償問題、汚染田の復元問題等で大きく揺れることになった。
対州鉱業所跡(2021年):外壁や屋根が取り払われ、むき出しとなった設備
樫根周辺地図(あくまでも大まかなエリア分け)  出典:国土地理院地形図(色分け・地名等追加)
銀山神社と佐須観音堂
 県道から佐須川に架かった橋を渡り、樫根地区に入るとすぐの左手に銀山神社がある。銀山絡みの神社というのは名称の通りで、記録にはないが、かつて坑道口「銀の本(かねんもと)」近くに安全を祈願して祀られていた神社が、里に遷されたとも考えられている。祭神の諸黒神に関しては、どのような神様なのか、分かっていないらしい。
 地区の奥の方には法清寺があり、その境内に佐須観音堂がある。かつて対馬では島内6カ所(佐須・仁田・三根・曽・佐護・豆酘)の観音堂を巡拝する「六観音詣り」が盛んであり、それは若い男女が知り合う切っ掛けでもあった。
 佐須観音堂には、平安時代に作られたいわれる仏像が多く安置されており、県指定の有形文化財となっている。中でも千手観音像は豪快なノミ捌きで、その力強さに圧倒されるものがある。
銀山神社
佐須観音堂(2003年)
千手観音像(2003年)
お胴塚と太刀塚
 法清寺の庭に1274年(文永11年)の元寇で戦死した宗助国の「お胴塚」がある。五輪塔が建っているが、その塔は戦国時代16世紀のものらしく、後世に建てられた供養塔であろうというのが定説だ。
 東隣りの床谷地区には「お首塚」という供養塚があり、首と胴が離れているのも悲惨な戦況を伝えていると書かれたりしているが、これは戦国時代では珍しいことではないそうだ。
 また、銀山神社の境内には「太刀塚」という助国の太刀を祀ったといわれる塚もある。
法清寺境内のお胴塚
銀山神社境内にある太刀塚
【地名の由来】 山を越えて隣村となる「椎根」と対をなすような地名であり、どちらも食用となる木の実を産するところも同じ。椎が多い所、樫が多い所ということを地名にしたかったのだろう。「島根」という地名の由来に、島国だから「島」、それに接尾語の「根」をプラスしたものという解説もあるので、樫根の「根」も接尾語「根」ではないだろうか。接尾語「根」の例:屋根・羽根・垣根
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