対馬全カタログ「村落」
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2024年5月1日更新
豊玉町
唐洲
【からす】
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はじまりは風待の港か。
昭和中期には船の大型化で
新しい時代の漁業に挑む
自然の良港、風待の港
 唐洲は、上島の南西角に伸びた唐洲半島の最狭部に位置し、北に開いた入江の最奥部にある。よって自然の地形だけで外海の波の影響を受けにくく、昔から風待の港として知られていた。ただし、北から北北西の風は防げず、その時は北東にある妙見浦に避難したという。
 唐洲の地名は、かつて中国(唐)へ渡る貿易船がここに寄港したことが起源とする説があるが、この村の名称「からす」に「唐洲」の字が当てられたのは江戸時代になってからで、室町時代の文書では「烏」の字を当てたものもあり、「唐」の字から発想した起源説にはあまり説得力がないと考えられている。
唐洲周辺マップ  出典:国土地理院地形図(地名拡大、地名追加等)、長崎県遺跡地図
縄文遺跡「ヌカシ遺跡」「多田越遺跡」が語るもの
 唐洲と廻の中間の無人の浦に、縄文時代の遺跡「ヌカシ遺跡」がある。住所でいえば廻字ヌカシと、廻に含まれている。
 1974年(昭和49年)、耕地整理中に石器や土器が発見され、発掘調査により縄文時代中期の遺跡と特定された。北西九州の阿高式土器が多く、底部に鯨底といわれる鯨の椎骨のスタンプが付いたものもあるそうだ。また、わずかながら朝鮮半島系の櫛文土器がみられるそうで、当時の朝鮮半島から九州へという主要交流先の変移がうかがえる。
 また、ヌカシ遺跡の南の浅茅湾側には、長崎県遺跡地図には載っていないが2000年過ぎに発掘された「多田越遺跡」がある。出土した土器はほぼヌカシ遺跡と重なる内容で、縄文中期後半から後期初頭の遺跡と考えられており、二つの遺跡の関係性が注目されている。
風待ちの港から交易港として発展か
 付近に縄文時代の遺跡があるが、それから中世までは遺跡も史料もなく、唐洲の集落としての起源はわからない。波が穏やかな唐洲浦は風待ちの港として利用され、そこから浅茅湾側へ南東に5町(約550m)のところに多田越の船着場があったと言われているので、おそらく多田越遺跡のあたりに船着場があったのだろう。
 唐洲半島の廻より先はひと際風が強い。外海が荒れている時は、標高60mほどの山を越えて、比較的波が穏やかな浅茅湾側に出、そこから船を利用したのではないだろうか。
 風待ちをする人々が小屋をつくり、あるいは既住の人たちが宿を提供することで発展し、さらに交易拠点として集落を大きくしていく。そのようなプロセスが想像できるが、どうだろう。
その名が歴史に登場するのは室町前期から
 唐洲の名が史料で確認できるのは、1395年(応永2年)の宗茂親発給の安堵状だ。「にいのこほりの内、からすのいけ田三反の事」と書かれており、現在は廻地区の一部である池田がかつては唐洲領だったこともわかり、半島突端の岬が唐州崎であるところから、唐洲半島一帯は唐洲領だったと考えられている。
 また、この安堵状は他の文書と照合することで阿比留八郎左衛門宛てのものということが判明し、さらに当時「烏八郎左衛門」と名乗っていたこともわかっている。
1471年の朝鮮の書『海東諸国紀』には家数50余戸の村として掲載され、中世には中規模の集落として知られていた。また、廻が20余戸の村として記載されているところから、小さいな集落ながらも、唐洲とは別部落として廻も認知されていたことがわかる。
対馬の村としては食糧事情は良い方だった江戸時代
 1610年(慶長15年)の宗義智の書状に「仁位郡之内、於唐洲村」と、初めて「唐洲」の地名が登場するが、その35年後の正保2年の『対馬二郡物成』には「烏村」と記されており、さらに16年後の寛文の検地帳では「唐洲」に戻っている。この頃が「烏」から「唐洲」に移行した時期ではないかと考えられている。
 波穏やかな港をもつ唐洲は漁業と交易で栄えたことは容易に想像できるが、それは中世までで、交易はもちろん沖に出る漁業が禁止された江戸時代は農業をするしかなかった。
 元禄時代の食糧状況を『元禄郷村帳』か見てみると、米麦の物成(年貢)が82石ということは、生産量は328石。そこから村人が確保できる食糧としての米麦は1/3と考えると、1年間一人当たり0.76石(10歳以上人口で計算)。その頃の対馬の村の平均が0.48石なので、平均よりは多い。
 また、その160年後の記録から、幕末の一人当たり食糧となる米麦量を計算すると、1年間一人当たり0.88石(11歳以上人口で計算)。一人当たり1日2.4合。さらに孝行芋もあり、対馬の村としては恵まれた方だったことがわかる。

1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』 
物成約82石、戸数32、人口144、神社1、寺1、
給人2、公役人14、肝煎1、猟師0、牛27、馬5、船3

1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦394石、家27軒、人口175人、男71人、女78人、
10歳以下26人、牛39疋、馬24疋、孝行芋1,630俵
大型船によるイカ漁で時代に積極対応
 東隣の水崎地区は島外から移住してきた漁師がつくった集落だが、移住者の土地所有が早くから可能になった村でもある。その理由が論文『対馬の廻・唐洲の調査研究』(檜垣 巧)で解説されていた。
 その論文は1983年(昭和58))夏の取材調査をもとにしており、廻と唐洲という隣接する二つの地区の差異や共通点を対比しながら、対馬の村の特徴を捉えようとするもので、そこに唐洲の漁船の大型化の理由の一つとして水崎移住者の漁業と土地所有があったこと述べられている。
 広島県から移住してきた水崎のめざましい漁業の発展に刺激され、唐洲の人たちは、県外からの入漁船に対抗するためにも、これからの対馬の漁業には大型船が欠かせないことを実感。1965年(昭和40年)頃、その大型船を造るために、水崎(加志々)の土地を売却したり、土地を担保に資金を借りたそうだ。イカ釣り船も定置網船も大型になり、これからの時代の先駆けとなった。
 その後、それに続く村々も増え、長崎県下では“対馬=大型船が多い”と。対馬、特に豊玉町では“唐洲=大型船が多い”と、漁業関係者では有名だったようだ。ただし、大型船といっても当時は10トンを超えれば十分大型と言われた時代ではあった。
まだ手漕ぎ舟ばかりの1951年(昭和26年)の唐洲   写真提供:宮本常一記念館
妙見浦と元島神社とモクゲンジ
 唐洲浦の東にある脇浦で、北からの風に弱い唐洲浦の弱点を補ってくれるのが避難港として評価の高い妙見浦だ。佐野鰯網の請浦としては唐洲浦が挙げられているが、鰯網は妙見浦でも操業されていたようだ。元島神社(妙見宮)の石灯籠を1777年(安永6年)に泉州佐野の、つまり佐野鰯網の覚正徳丸 佐次良が寄進している。
 さらに時代は下り、明治20年から40年の間はサバ漁で賑わい、多い時は100艘ほどの船が妙見浦を使っていたそうだ。元島神社(妙見宮)の拝殿には外来漁師の落書きが遺っていたが、立て替えの時に処分された。落書きには地名を記すものもあり、広島湾沿岸の村や島、山口県瀬戸内海沿岸の村、さらに徳島県や熊本県などからもやってきていたそうだ。
 社叢には大陸系植物のモクゲンジが自生しており、7月には黄色い花を咲かせ、花の名所の一つになっている。 
元島神社(妙見宮)
モクゲンジ
対馬版ハロウィン、「孝行芋盗っ人」
 中秋の名月の日、旧暦の8月15日に、孝行芋(サツマイモ)をお月様に供え、その芋を子供たちが盗む(実際は「もらう」のだが)という「芋名月」の行事が唐洲では今も現役で行われている。
 それを唐洲では「孝行芋盗っ人」と言う。各家が、庭の月が見えるところにふかした芋を供えると、子供たちがやってきて、芋を供えたかどうかを聞き、供えたぞーと答えると、そーっと盗っていくという。今風に言えば、仮装はしないもののまさにハロウィンだ。
 この風習は対馬の他の地区にもあり、芋を供える「芋名月」、「芋盗み」、「お月見どろぼう」とも呼ばれている。
 子供も少なくなり、芋ばっかりもらってもたいへんなので、最近はお菓子を供え、盗っていってもらうようにしているという。
 同様の行事は対馬だけでなく、全国各地にあり、福島県、茨城県、千葉県、群馬県、山梨県、愛知県、三重県、奈良県、大阪府、和歌山県、大分県、熊本県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県などの農村部で、現在も行われているが、多くは里芋だそうだ。孝行芋(サツマイモ)というのが、なんとも対馬らしい。
 中秋の名月の夜に畑の芋を盗む、というのが原形のようで、子どもは“月からの使い”とされており、芋盗っ人に芋を盗まれたら縁起が良い、豊作になると言われ、喜ばれていたそうだ。
その他
◎唐洲の大ソテツ:ソテツは九州南部から琉球諸島、台湾、中国南部にかけて自生する常緑低木で、宮崎県都井岬が自生地北限とされている。日本では、安土桃山時代以降、観賞用の庭木として愛されてきたといわれ、唐洲にもその頃に移植されたのかも知れない。そう考えると樹齢は450年前後となる。一つの株から育ったソテツとしては日本でも最大級で、高さは約4m、枝張りは東西・南北とも約9mもあるそうだ。“琴の大イチョウ”と並び賞される対馬の名物巨樹で、1978年(昭和53年)に長崎県の天然記念物に指定されている。
唐洲の大ソテツ
【地名の由来】「カラ」は加羅(伽耶)や唐に通じ、外国との往来があったところから付けられたという説がわかりやすそうだが、それにしては古代の遺跡らしきものがないところから説得力に欠ける。全国には、唐臼(からうす)が「カラス」に変化して生まれた地名「三碓(ミツガラス)」もあれば、鳥のカラスにちなんだ地名も多い。唐洲の由緒も、地名を付けた頃にカラスが多かったから、というシンプルなものかも知れない。
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