佐野の漁師たちの地引網は佐野網と呼ばれ、漁獲の対象は鰯(いわし)だった。室町末期から都市近郊の農家は、増産のために肥料を積極的に使うようになり、鰯を干した干鰯(ほしか)は最高の肥料として需要が増大していった。
資本は和泉の廻船問屋や干鰯問屋が出し、往路は米、塩、紙、綿、たばこ、畳表などを積み、復路は干鰯や塩魚を積んだ。運上金を払い逗留切手をもらうために、まず府中(厳原)に入港するのだが、年間500~600艘が来島した。
しかし、元禄以後は入漁制限が厳しく、手続きが煩雑になった。元々の運上金が高価だったこともあり、経営が難しくなってくると、佐野網も次第に減少していった。
慶長の役から213年後の1810年(文化7年)の記録では、権利が存続していたのは62浦のうち37浦。その中には泉の名はない。ほとんどが府中から近い、島中央部の東西両岸や浅茅湾の浦だった。