対馬全カタログ「村落」
観光  食  特産品  歴史  社寺  生き物
村落  民俗・暮らし  アウトドア  キーワード
2024年2月11日更新
上県町
犬ヶ浦
【いぬがうら】
i
サワラ漁で知られた村は
仁田の玄関港かつ
舟ぐろう最強の村だった
犬ヶ浦なのに港名は「仁田港」
 仁田湾に大きく張り出した半島の内側に位置する犬ヶ浦は、漁師の村として知られている。500mはあろうかという細長い防波堤が港全体をカバーするように伸び、南東からの風波を防いでいる。またこの防波堤は、湾内の流れをスムーズにする導流堤の役割も果たしているという。
 犬ヶ浦の港だが名称は「仁田港」となっている。国土地理院の地形図にもそう記されている。仁田の一部である越ノ阪にも船着場はあるが、川が運んできた土砂の堆積により随分前から小型船しか航行できない。
 かつて厳原・佐須奈間(厳原―鶏知―竹敷―小綱―三根―鹿見―仁田―佐須奈)を汽船が往復していた時代、仁田湾に入った汽船は犬ヶ浦付近で停船。艀(はしけ=手漕ぎ舟)を横付けし、客の乗降、荷の積み降ろしを行い、艀は越の阪まで客と荷を運んだ。つまり犬ヶ浦が“仁田”の海からの入口だった。それが港名の由来だ。
仁田湾全体図  出典:国土地理院地形図(地名拡大)
1977年、日常の足は船からバスへ
 昭和の初め頃までの道は馬が通れば十分と考えられていたので、犬ヶ浦の人々は他の村に行く際は船を利用し、時化の時だけ陸路を使ったそうだ。
 盆と正月には、鹿見や志多留まで、誘い合って櫓漕ぎ船で砂糖や瀬戸物、下駄などを買いに行ったという。越ノ阪へはカスマキや飴などの駄菓子を買いに行った。逆に周辺の村からは、魚やダシをとるためのイリコなど、海産物を船に乗って買いに来た。
 昭和40年代になると、仁田から志多留方面に車が通れる道路が少しずつ延伸され、1977年(昭和52年)6月に仁田―志多留間にバスが通行できる道路が開通。8月にはバスが運行を始め、徐々に個人の車所有も増え、日常の足も船から車へ移行していった。
犬ヶ浦周辺地図   出典:国土地理院地形図(地名拡大、遺跡名等記入)、長崎県遺跡地図
中世の犬ヶ浦を語る史料は見つかっていないが
 集落のほぼ中央、丘の上に広形銅矛の出土地があり、鉾山遺跡と名付けられた。弥生時代後期、樫滝周辺に拠点があった有力者の墳墓と考えられ、犬ヶ浦の発祥を語る遺跡ではないようだ。
 犬ヶ浦に関する古い史料はまだ出てきておらず、15世紀後期の日本の各地の様子を詳しく記述した朝鮮の書『海東諸国紀』には、対馬の村々の戸数が記載されているが、犬ヶ浦は載っていない(記載漏れは多く、書かれていないからといって存在しなかったわけではない)。
 また、16世紀の「書契覚」と呼ばれる文書に、志多留、越高、御園の土豪が貿易商として活躍しており、彼らを取り込もうとして当時の島主と郡主が競って官位や名を与えるという内容のものがあるが、犬ヶ浦に関するものは見つかっていない。
 ただ、当時の仁田湾一帯は西海岸最大の対朝鮮貿易の中核地で、湾奥の樫滝や、さらに奥の飼所にも有力な貿易商がいたことがわかっている。彼らが使う港湾施設の一部を犬ヶ浦が担っていたとは考えられないだろうか。
 外洋へのアクセスも良く、船の係留、貿易品の保管場所として最適であり、また対馬特有の冬の北西風を凌ぐのに犬ヶ浦は最適な地形をしている。特に海に面していない飼所からすれば、ここは垂涎の地だったのではないだろうか。そして、樫滝や飼所から見れば犬ヶ浦はほぼ戌(犬)の方向(西北西かそれよりやや北)となる。
 「犬ヶ浦」の名が登場するのは江戸時代になってから。1638年(寛永15年)の『藩庁毎日記』に「いぬかうら」という文字があるそうだ。
江戸期、農作物収穫の絶対量が不足
 江戸幕府が誕生してほぼ100年後の対馬の村々の様子を伝える『元禄郷村帳』には、犬ヶ浦のデータとして下記のような数字が記されている。
 まず「人口」だが、10歳以下の子供が除かれているのに111人とは、そこそこ大きな集落だったことが伺える。周辺の村の人口というと、越高123人、御園(みそ)118人。同規模の集落であったことがわかる。
 しかし、米や麦の収穫量はどうだろう。物成(年貢)から収穫量を算出すると、越高(136石)、御園(104石)、犬ヶ浦(72石)となり、犬ヶ浦が極めて少ない。越高のほぼ半分だ。
 この絶対的な食料不足を犬ヶ浦の人たちはどのように乗り越えたのだろうか。

1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』
物成約18石、戸数17、人口111、神社1、寺1、給人0、公役人13、肝煎1、猟師8、牛0、馬0、船4
江戸後期、収穫量1.5倍に増えたが
 『新対馬島誌』(1964年編纂)には、江戸時代、物成=年貢(収穫量の1/4)や公役銀(金銭で納める税)調達などでの支出を考慮すると、食糧として農民の口に入るのは収穫量の1/3だと書かれている。生産物は米麦だけでなく、農産物だけでもないので、村々で状況は違ってくるが、平均すると1/3くらいということだろう。
 農民の食糧を収穫量の1/3として計算すると、元禄時代の犬ヶ浦の場合、1人当たり(10歳以下は除く)の麦は0.22石。1石が1000合なので、220合となり、1日あたり麦0.6合となる。通常なら1食分、しかも肉体労働をしての1食分だ。10歳以下の子供も加えるとおそらく0.5合くらいになる。
 元禄時代から160年後には、下記のデータが示すように「籾麦112石」となり、収穫量は1.5倍になった。ここから計算すると、1人当たり(10歳以下は除く)の麦は0.4石=400合となり、1人1日あたり麦1.1合となる。10歳以下も加えると1日あたり1合。元禄の頃の約2倍。さらに孝行芋(サツマイモ)がある。食料状況はかなり改善されたが、他の村に比べるとやはり少なかった。また、現代と比較すれば半分以下だ。

1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦112石、家18軒、人口104人、男41人、女52人、10歳以下11人、牛15疋、馬0疋、孝行芋1,300俵
食糧不足を救ったのはサワラやイワシ?!
 江戸時代、対馬では漁業が禁止されていたが、地先の漁は許されていた。湾に迷い込んできたイルカをとるイルカ漁や地引網などだ。
 また、江戸時代初期から「佐野鰯網」の請浦62浦のひとつであり、地引網の技術はしっかりしていたと考えられる。
 1811年(文化9年)に半分に減った請浦の中にも犬ヶ浦は残っており、仁田湾では犬ヶ浦だけだった。鰯網漁にとって好適地だったことが伺える。
 それに、犬ヶ浦にはサワラ漁があった。湾の地形が幸いしてだろう、サワラがカタクチイワシなどの小魚を追ってよく湾の奥まで入ってきた。
 犬ヶ浦は、江戸時代には村網としてサワラ漁やイワシ漁を行っていたはずであり、それが穀物類の不足を補っていたのではないだろうか。また犬ヶ浦の漁師たちには豪傑と呼ばれるような体躯の立派な男が多いと言われるのも、昔から先祖代々タンパク質やカルシウムの豊富な食事をしていたからとは考えられないだろうか。
サワラ漁の村は、対馬では犬ヶ浦だけ
 サワラは春から秋にかけては沿岸の海面近くを群れで回遊し、食性は肉食性で、おもにカタクチイワシやイカナゴ等の小魚を捕食する。犬ヶ浦のサワラ網漁は、そのカタクチイワシを追って仁田湾に入ってきたサワラをいかに早く発見するかが勝負だという。サワラは高速で移動するからだ。
 犬ヶ浦では、魚群を発見するための魚見を山見といった。網の世話役が交代で山の頂上から見張り、見つけた時は「ヤレ、サワラ、ヤッホー」と待機している船に届くように叫び、2隻の船がすぐに出航する。見張り役は声が遠くまで届く引き声の強い人が適任だという。
 かつてサワラが獲れた時は、すぐに鹿見の仲買人に連絡し、到着を待ちながらサワラを浜に並べ、到着すると即入札が行われた。配当は網元4分、引き子6分。船前(船の取り分)は人夫賃と同じだったそうだ。
 さまざまな資料を見ても、サワラが特産という村は、対馬では他にない。やはり仁田湾の細く曲がった地形が幸いしているのだろうか。
舟ぐろう最強部落の一つ
 「舟ぐろう」は対馬の神事に付きものの催しだったと考えられ、いつ頃から始まったかは明確ではない。ただ、舟ぐろうを全島規模のレースにし盛り上げたのは、木坂の海神神社の大祭であり、竹敷の旧海軍要港部が開催した海軍記念日の賞金をかけた舟ぐろうだった。
 犬ヶ浦は木坂の海神神社の大祭で開催される舟ぐろうには積極的に参加し、大正時代からは優勝することも多く、優勝旗が何枚も保管されているという。戦後にも数回行われたが、そこでも犬ヶ浦は優勝している。
 “ふるさと創生事業”で国から1億円が交付された1988年(昭和63年)、交付金を当てにしてだろうか、対馬各町で舟ぐろう船が建造された。そして、「壱岐・対馬国定公園指定20周年」を記念した「全島舟ぐろう大会」が行われ、その後毎年各町持ち回りで開催された。
 その「全島舟ぐろう大会」の第5回、第6回で、上県町代表として参加した犬ヶ浦チームが連勝。その強さを見せつけたが、全島レベルの大会は第6回で終わり、その後開催されることはなかった。
昭和25、26年頃の海神神社大祭での優勝記念 (『対馬のくらしと舟競漕』より転載)
男舟と女舟による舟ぐろう
 太平洋戦争の前までは、金山宮の秋祭りに時々舟ぐろうが開催された。後述する盆踊りの男役・女役がそのまま男舟・女舟に分かれ、競い合ったそうだ。女舟といっても女装する訳ではなく、漕ぎ手はどちらも筋骨隆々の漁師たちだ。
 また、戦前は盆の16日の漁願祭に、浜で酒を飲み、海の神様を拝んだ後、舟ぐろう目当てにやってきた鹿見や越高の船と競漕したこともあったそうだ。
 犬ヶ浦の舟ぐろう最強伝説を支えたのは、他の村から羨まれる体格だけでなく、競漕の回数やそれによって鍛えられた負けず嫌いがあったのかも知れない。
金山宮と大石
 金山宮(きんざんぐう)は明治時代、金を求めて山を掘ったときに勧請されたそうだ。実際に採掘できたのは亜鉛らしく、当初から亜鉛目的だったのかも知れない。坑道は30mくらいしかないとも。
 鳥居の横に東屋風の小屋があり、中に巨大は丸い石が収まっている。金山宮ゆかりの石かと思いきや、実はそうではないらしい。
 かつて金山宮の前は干潟で、その干潟に昔から大きな丸い石があった。昭和40年代にバスが通れる道路をつくるためにその干潟も埋立てることになり、丸い大石も一緒に埋めてしまったところ、しばらくして工事をした会社の従業員が事故でケガをしたそうだ。
 凶事を払うために神様参りをしたところ、石を埋めたからとのお告げがあったので、石を掘り起こして現在の場所に安置。その後小屋を建てたということらしい。金山宮とはまったく関係がない、とのことだった。
金山宮(きんざんぐう)と小屋の中に鎮座した大石
男踊りと女踊り混成の盆踊り
 犬ヶ浦では御踊りは1994年(平成6年)頃まで踊られていた。犬ヶ浦では男踊りと女踊り(女装)があり、家によって男役か女役かは決まっていたそうだ。女踊りは、男たちが晴れ着を着て、お太鼓結び、姉さんかぶりで踊った。
 盆踊りの記録VTRには、まず神社で扇踊りを奉納。男2列、女2列で踊っている。その後手踊りがあり、寺に移動して扇踊りを披露するというもの。
 踊りの稽古始めは旧暦6月11日と決められていた。7月7日は早朝に踊り子たちが江音寺に舞台をつくり踊った後にスイトンやぜんざいを食べたそうだ。
その他
◎鷦鷯神社(ささぎじんじゃ):サザエを祭った神社として知られる。そのサザエに関しては2説あり、ある漁師が銭島付近で漁をしていると櫓の上にサザエがのったという説と、岩の上に乗っていたという説。いずれにしてもそのサザエを持ち帰り祀ったのが神社の始まりだと言われている。
(鷦鷯神社の写真を予定)
◎犬ヶ浦に巨大な構造物が登場することがある。魚の住み処となる魚礁だ。犬ヶ浦には起重機船を所有し魚礁整備工事を請け負う土木会社(株)三槻組があり、対馬全島の沿岸整備事業などを行っている。
人間の住む集合住宅レベルの規模がある巨大魚礁
【地名の由来】『津島紀事』に、言い伝えとして、昔、左大臣が来て当地を開き、その住居を「院」と言ったことから、里の名前を「院の浦」と呼ぶようになったという説が紹介されている。それ以外の説に出会えないが、左大臣をもってくるとは少々話が大きすぎる。
 犬(戌)を方角とみれば、「西北西かそれよりやや北」ということになる。樫滝方面から見れば犬ヶ浦は確かに戌の方向ではある。
 時間とともに音として「いぬ」は「いん」に変化することはあっても、「いん」が「いぬ」に変わることはないのではないだろうか。「いん」ではなく「いぬ」の方にこだわって由来を探した方がよいように考えるが、どうだろう。
Ⓒ対馬全カタログ