対馬全カタログ「村落」
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2024年5月9日更新
豊玉町
位ノ端
【いのはし】
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対馬のイカ漁を牽引してきた
外来漁民の村。
曽の小字ながらかなり広い
広島からの移住漁民中心の村
 この村の名が史料に登場するのは、室町時代中期の1436年(永享8年)、「いのはしのはたけ(位の端の畑)」としてであり、「いのはし」という地名はあったものの、その頃から江戸時代までは集落は形成されていなかったと推測されている。
 江戸時代中期以後は、東海岸のいくつかの村がそうであるように、広島からの旅漁師が対馬での漁のための納屋を設け、一時的に住むようなことはあったかも知れないが、位ノ端にその記録はない。
 明治に入ると藩が廃止され、さまざまな規制が消滅した。外来者の居住が自由になると、土地を所有している村々との交渉は必要だが、納屋を設けていた所に家を建て、そこに住み続ける漁師も増えてきた。
 位ノ端で生まれたという70代の村人の話では、明治から大正に変わる頃(1910年頃)に、曾祖父たちが住み始めたと聞いている、とのことだった。
位ノ端のエリア(行政区画ではないので概ねだが、広い):峰町櫛との境界は櫛川。対馬市になる前は、上県郡と下県郡の境界でもあったので、そこにかかる橋を「郡界橋」といった。  出典:国土地理院地形図(地名追加、地名拡大等)
一見櫛地区に見えるが、郡界橋より左(櫛川右岸)はすべて位ノ端
この辺りが位ノ端漁港の中心
位ノ端南端の小さな入江一帯が「ホドキ」
漁業の変化に追いつけなかった港湾施設
 位ノ端は60軒ほどの、海岸線に沿って家が建ち並ぶ「寄留」の村だ。「寄留」というのは対馬独特の言い方で、本来は外からやってきて住みついた人のことをいい、さまざまな権利が制限される。「寄留」として対馬に住み続けるということは、その制限を受け入れながら、暮らしを創っていくことに他ならない。
 かつては少ない平地に岸にへばり付くように家が建っていたが、昭和33年頃に道が通り、道と山との間に家が建ち、家の前に矢棚(魚や網などの干すために海に張り出して設けた棚)が造られたりして、漁村らしくなっていったいようだ。
 しかし、なかなか埋め立てが始まらないので、1964年(昭和39年)の東京オリンピックの頃、個人で埋め立て工事を行ったところもある。
 船が繋げ、陸揚げできるような繋船場の工事がスタートしたのが昭和49年くらい。一説によると、なかなか予算が通らないので、材木の積み出し港・曽の浦港湾施設として整備するという建前で話が通って埋め立てが開始され、すべて完成したのは平成になってからだそうだ。
 その後、何年もかけて曽ノ浦の真ん中に、“くの字形”で長さ250mの波除け堤防が設置され、2014年には潮の干満に左右されない浮桟橋も完成した。しかしその頃には、イカの水揚げ量が大きく落ち込んでいた。
位ノ端漁港全景
2014年に新たに整備された浮桟橋(長崎県対馬振興局Facebookより)
イカ漁先進地区の一つだったが
 位ノ端は東海岸に多いイカ漁の村だ。昭和30年代は村でスルメイカの加工をして本土に送っていた。船から揚げたイカを処理し乾燥させるのは女性の仕事で、俗に言う“イカのカーテン”がイカ漁の村の名物だった。
 昭和41年頃になると村に回転乾燥機が入り、乾燥時間が短縮されたが、女性の仕事が楽になったわけではない。昭和42年頃にイカの鮮魚が福岡まで送れるようになると、陸揚げ後の仕事が減り、やっと女性が重労働から解放された。
 その頃から大型船で日本海沖合に出漁するようになった。 丸1日半くらいかけて大和堆まで行き、水揚げは石川県などで行ったそうだ。大和堆まで行くようになったのは位ノ端が最初だと老翁が自慢した。
 「昭和の頃はよく獲れた。大和堆まで行くときは、燃料やゴミタンクを積んで、帰ってくるのは3カ月後という時もあった。それでもイカの漁場としては沖ノ島と対馬の間が一番。剣先イカの最高級といわれる「特牛(こっとい)」もよく入った。大和堆まで行かなくなっても、浜田沖(島根県)まではよく行ったが、今は山口県まで。イカが釣れなくなり、現役のイカ釣り船も、位ノ端では4艘ほどになってしまった。」
対馬のイカ水揚げ量の推移:対馬のイカ釣りは、昭和30年代の自動巻上げ機とパラシュートアンカーの普及により発展したと言われている。1973年(昭和48)、1980年(昭和55年)、1992年(平成4年)をピークに盛り返しながらも漁獲高は徐々に減少。近年の燃油高騰が加わり収益が悪化していることから、出漁を見合わせる船も多いようという。
【地名の由来】 室町時代中期には既に地名として確立されていたことはわかっており、「仁位郡内で、三根郡との境界の手前」、「仁位の端」という場所の情報を地名にし、いつの頃からか「仁」が省略されたと考えられている。
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