1471年に朝鮮で編纂された『海東諸国紀』には、伊奈は二所合わせて100戸と書かれている。もう一所は隣の志多留だろうか。伊奈には対馬が宗家支配になってから郡の役所である在庁がおかれた。元禄の頃からは対馬八郷のひとつ伊奈郷の主邑となり、郷内16カ村の筆頭として郷をまとめた。
伊奈久比神社には白鶴が稲穂を落として稲作が起こったという「穂落し神」の伝説があり、稲穂を落としたとされる「穂流川」もある。実際に種籾をまいたのは、水が豊かで水稲に最適な志多留となっているが、稲が伝わったのはあくまでも伊奈であるらしい。おそらく弥生時代に稲は上陸。郷土史家によると「伊奈久比」も「稲喰い」に通じるという。しかし、中世から近世にかけては「伊奈久比神社」の名の記録はなく、伊奈の神社は熊野権現のみとされていた。現在の志多留能理刀神社だ。
伊奈久比神社はのちに復活したが、伊奈には廃社となった神社が11社(熊野権現を含む)もあり、かつての郷邑としての繁栄が伝わってくる。