対馬全カタログ「村落」
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2023年1月6日
美津島町
今里
【いまざと】
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かつての悲恋物語も
村の暮らしに余裕があったから
かも知れない
弥生時代以前からの村かも知れない
 1440年(永享12年)の文書に今里という名があるという。その頃に生まれた村ではないかと、1978年(昭和53年)出版の『美津島町誌』に書かれているが、その後、隣の加志浦同様、今里浦でも弥生時代の墳墓らしき遺跡が発見された。
 今里は、室町時代の対馬各村の戸数を記した朝鮮の書『海東諸国記』には載っていないが、浅茅湾沿岸、西海岸の村はすべて網羅されている訳ではない。また、当時はまだ小さい村であったか、加志の一部として扱われたのではないかと考えられている。
 現在の田畑の多くはかつては海であり、南東側の集落の辺りは塩屋と呼ばれたそうだ。かつて製塩が行われていたと言われているが、今の村人でそのことを知る人はほとんどいない。
今里周辺地形図:今里は加志から直線距離で1kmほど西  出典:国土地理院地形図(地名拡大、地図記号移動)
対馬版ロミオとジュリエット、「今里こんたん」
 対馬で今里と言えば、ほとんどの人がすぐに思い浮かべるのが「今里こんたん」だ。「こんたん」というのは本来は「懇談」のことらしいが、「近世末の江戸語では情事関係の意味にも使われたという」と、『対馬拾遺』(日野義彦著)が教えてくれている。
 時は明治が始まってすぐの頃、まだ廃藩置県(明治4年)前なので、江戸幕府は滅んだが、対馬藩も侍も江戸時代のままだった頃だ。
 士族の嫡男 西山源作が百姓の娘おつやを見初め、恋仲になるが、身分が違うと、親だけでなく村全体から反対される。そこから二人の逃避行が始まり、一度は連れ戻されるが、再び手に手を取って、今度は北に逃げる。そして、また連れ戻されるのだが、恋の結末は今里浦での心中と相成る。
源作・おつやの比翼塚(2003年)
陶山訥庵後の農政を担った、大石阿吉の活躍
 今里には元禄時代以前からの給人(郷士)が二家あった。その一つが大石家だ。
 大石阿吉は1715年(正徳5年)、今里で生まれ、27歳(19歳という説も)で下知役(今でいえば村長みたいなもの)となり、今里の開田事業に取り組むと、それが評価され、藩の農業土木系の要職を任されるようになっていった。
 阿吉は、開きで農地を増やすだけでなく、農業を中心としながらも林業、漁業にも取り組む振興策を実施。松や杉の植林も積極的に行った。そして、全員が年貢を納め公役を務め、脱落する者のないよう、困窮者には手を差し伸べた。よって百姓からも人望があったという。
 今里村は、1784年(天明4年)、村網で張切網を導入した。イワシやキビナゴなどの小魚だけでなく、イルカや、マグロも捕って事業化をめざしたが、これは経営が難しかったようだ。途中で阿吉が抜けたからかも知れない。府中の町人経営に切り替わり、しばらくして終わったようだ。
75歳で八郷吟味役を受け、困窮者には自らの種麦を分け与えたという。1795年(寛政7年)、81歳で逝去。今里の繁栄、陶山訥庵没後の農政の基礎をつくった郷土の偉人の一人だ。
緑の田畑はかつては潟地。大石阿吉によって開かれたのは「塩屋原」「橋の本」など
江戸時代に、対馬で、戸数が驚異の1.4倍増!
 大石阿吉や今里村民の努力の成果だろう、幕末期(1861年)の今里村の生産高は米と麦で492石にもなった。元禄時代(1700年)の368石(物成=年貢92石×4で算出)と比べると124石アップの、1.34倍増だ。さらに孝行芋(サツマイモ)の1000俵が加わるから食料としてはそれ以上のアップになる。(生産高は年によって豊作・不作があるので一概には語れないが)
 平地の少ない対馬だが、開田等によってこのように生産高を増やした村は他にもある。今里が特徴的なのは家数が1.4倍になっていることだ。
 理由は色々あるだろうが、家数が増えたということは世帯数が増えたとであり、それは分家が増えたということだ。次男、三男が妻をめとり分家として独立したと考えてよいと思う。
 開田で田地が増えた分、百姓竈を増やし、独立した彼らを公役人(納税を課せられた一人前の百姓)にしたかどうかは資料不足で追えないが、江戸時代に家数が増えるということは対馬では珍しい。他には、久和、樫根、小茂田など、すべて下島の村だ。

1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』 
物成約92石、戸数38、人口194(10歳以下を含まず)、神社3、寺1、給人2、公役人20、肝煎1、猟師11、牛20、馬30、船7

1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦492石、家53、人口298、男131、女129、10歳以下38、牛50、馬100、孝行芋1,000俵
絵に描いたような半農半漁の村
 現在の今里は典型的な半農半漁の村だ。自然の地形もそれを物語っている。漁港を守るかのように突き出た半島。さらに志賀島が荒波を和らげる。一方、今里川が運んできた山の土が堆積し、そこが干拓され田畑となる、
 江戸時代に藩の政策で漁業が禁止され、農業に集中することを余儀なくされたが、それでも大石阿吉の例のように、漁業にも果敢に挑戦した歴史がある。明治になると押し殺した海稼ぎへの欲求がはじけるように、多くの男たちが船に乗ったのではないだろうか。
 神様も、里の奥の方に鎮座する山本神社と、浦口の志賀島に鎮座する志賀神社。農業の神様も、漁業の神様も、どちらもしっかりと祭られている。
山本神社:鳥居の横の大祭記念碑には「今里が加志から分村し出来たのは、約560年余り前(美津島町誌)と言われる。当時から今里の人は山本神社を氏神として祀り、11月7日の例祭を七日祭または山止祭と言って親しんできた。(後略)」と彫られている。例祭は、「元山送り」とも言われたが、最近では「山本神社祭り」と言われているようだ。
志賀神社:鹿ノ島に鎮座し、例祭「志賀神社祭り」は6月12日に行われる
自然の地形が漁業に最適な今里浦。右側が今里小学校
130年続く小学校と、長く続いた地区運動会
 今里地区には、尾崎や加志からも児童が通う「今里小学校」がある。1895年(明治28年)に創立され、ほぼ130年間、子供たちの知を育み成長を支えてきた。その後、1947年(昭和22年)に中学校(2015年廃校)も併設され、広いグラウンドも設置された。
 そのグラウンドを活かして、地区の運動会も行われた。「今里地区運動会」だ。今里を4地区に分け、4チーム対抗で綱引き、徒競走などが行われた。村人全員参加の大盛り上がりの大イベントだったという。
 記録を確認にしてはないが、戦後しばらくして始まり、長く続いたが、アキレス腱を切るなどのケガが発生するようになり、2010年頃に廃止されたという。
 今里地区は空家も少ないそうだ。高齢になっても住みやすいということかも知れない。
地区の真ん中を流れる今里川。この写真の右側(左岸)を「日向」、左側(右岸)を「かげ平」(俗称「かげ」)という
かつて盛大であった今里の盆踊り
 今里の盆踊りは、子供組、おせ組(子供組より年長者)、狂言(芝居)組の3組によって演じられ、それぞれ8人で構成された(10人の時代もあった)。
 選ばれた子供たちは旧暦の6月20日頃から7月12日までみっちり稽古を重ね、本番の7月14日、15日、16日、17日に、寺(大蔵寺)や神社で踊りや芝居を奉納する。そして、最終日の17日には最後に舟で鹿ノ島に向かい、志賀神社に踊りを奉納し、帰りは舟ぐろうで盛り上がって終了となったそうだ。
 狂言(芝居)は明治25~26年頃、西山利吉という村人が大阪の道頓堀まで行って、本場の芝居を仕込んできて以来、今里の芝居は周辺の村々でも評判が良く、加志や尾崎から多くの観客がやってきたそうだ。
 しかし昭和18年頃、戦況の悪化とともに人々の心に余裕がなくなったからだろうか、今里の盆踊りは途絶えてしまった。
【地名の由来】 かつては加志の一部で、それが村としての体を成すようになり、まず枝村となり、その後に独立。新しい里ということで「今里」と名付けられたという。
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