対馬全カタログ「村落」
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2023年1月28日
厳原町
今屋敷
【いまやしき】
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島民の暮らしの中枢が
集まった今屋敷は
今も昔も対馬のセンター
交流センター、郵便局、銀行、博物館など色々集中
 厳原市街の中央に位置する対馬市交流センター「ティアラ」はショッピングセンターでありながら、つしま図書館があり、イベントスペースがあり、テラス席もあり、市民の憩いの場でもある。
 かつてその交流センターの南角辺りにバス会社「対馬交通」の本社があった。玄界灘の荒波を越えて島に戻ってきた帰郷者たちは、本社前のバスターミナルまで移動し、そこから全島に散っていった。
 その東に建つ厳原郵便局は1872年(明治5年)から約150年間、局舎を変えながらもずーっと今の場所だ。
 また、道路を挟んで南側に建設された「ふれあい処つしま」は対馬観光の中心的な役割を担う。多くの観光客はそこで情報を仕入れ、あるいはガイドを紹介してもらい、名所・旧跡に向かう。そして旅の最後には、ここで土産を求め帰路に着く。
 空港が鶏知に建設され、対馬のショッピングゾーンが鶏知になったが、やはり今も昔もここが対馬の一等地、センターポジションであることに変わりはない。
今屋敷地区の範囲(正確な境界線ではない) 出典:国土地理院地形図(一部修整、施設名等追加、境界線記入)
昭和30年代、今屋敷には対馬の元気の象徴だった
 川端通りには店が並び、右岸の今屋敷側にはパチンコ屋や映画館もあった。大人たちはパチンコ台でジャラジャラ玉を転がし、子供たちはゴジラに、キングコングに、モスラに、ドキドキした。
 その映画館「公楽」が1981年(昭和56年)に、テレビやビデオの普及に押されたとはいえ閉館するのは、対馬の人間にとってもショックだった。それは対馬から映画館が消えたということでもあった。
 1960年(昭和35年)頃からは島の人口も減りはじめ、確実に過疎化が始まっていった。川端通りや今屋敷の賑わいは、そんな対馬の元気度が反映されていた。
映画は「公楽」で(1962年)  写真提供:宮本常一記念館
スズランのような街灯が印象的だった西川端通り(今屋敷側)(1962年)  写真提供:宮本常一記念館
1962年の川端通り  写真提供:宮本常一記念館
道路幅を拡張したため石垣が消え、川幅が狭くなった現在の川端(2022年)
府中(厳原)の発展と今屋敷地区
 今屋敷の歴史をたどると、清水山南麓の地にあった島分寺(朝廷が創建)に行きつく。国司の居館「国庁」は金石川をはさんで南側、現在の市役所辺りにあった。
 16世紀まで大規模な埋め立ては行われず、かつての厳原は本川と金石川の流域に、上里(宮谷以北)、中村、向里(天道茂、田淵の一部)、奥里(国分)の4つの集落によって構成された散村だった。
 南北朝時代には一時的に政治の中心が仁位に移り、そこから1408年(応永15年)に宗貞茂が佐賀に国府を移した頃は、旧厳原(当時は与良)は活気が消え、廃れていたそうだ。
 1468年(応仁2年)に島主となった宗貞国が再び府を与良に移し、ここを「府中」と改称(文書では1476年初見)。1869年(明治2年)に「厳原」になるまで約400年間、侍の町「府中」には良きも悪しきもさまざまな歴史が刻まれていった。

※貞国が与良に入った15世紀後半は、かつての4集落に新たに「下里」(清水山東南麓:現在の山下通り周辺)が加わった
今屋敷地区の東側半分は埋立地
 古代は八幡宮神社の近くまで海だったそうだが、時代とともに砂の堆積が進み、室町後期には波打ち際は大手筋あたりまで後退していたようだ。
 池神社の周辺は潮汐の影響が及びにくい沼地になっていたが、 浜殿神社の霊石は満潮時には波間に消えたという。
 1526年(大永6年)に池神社周辺が埋立てられ、「池の屋形」が造営された。これを俗に「今屋敷」と言ったらしく、それが地名の由来となっている。ただ、池の屋形は1528年(享禄元年)の内乱で焼失。直後に国分寺(かつての島分寺)横に建てられた「金石屋形」の時代がスタートするにことになった。
 また、対馬に多大な負の影響を与えた豊臣秀吉の朝鮮侵攻は、清水山城の築城だけでなく、秀吉を迎え入れるために府中の町づくりを急がせる結果となった。
 1591年(天正19年)に事業に取りかかり、大手橋、江尻橋、宮前橋という“天正の三橋”を完成させたそうだから、その橋で結ばれるエリアは町割りに従って埋め立てが完了していたということだろう。
池神社
浜殿神社:かつて八幡宮神社の御旅所だったが、現在の御旅所はさらに海岸近くに設けられているそうだ
町づくりは災害復興から
 1659年(万治2年)12月27日、府中を大火が襲った。後に「万治の大火」と呼ばれる火事だが、焼失した家1078戸(1718戸とも)、死者16人、その頃の府中の南側半分はほとんどが焼け野原になった。
 そこで、当初から予定されていた桟原屋形の築造に加え、町割り(町の整備)を同時に行うという一大プロジェクトがスタートすることになった。
 1660年(万治3年)、現在の日吉地区、桟原地区をすっぽり飲み込むほどの丘陵地帯を切り崩して、新しい屋形や武家屋敷の建設地造成がスタート。そこででた土砂は埋め立てに使われ、また白い石英斑岩は石垣に利用され、府中ならではの美しい景観を作り出した。
 1665年(寛文5年)、金石屋形の裏にある国分寺を日吉に移して屋形を拡張。本川と金石川の間にあった中洲を埋め立てて、中須賀が開発された。
 1678年(延宝6年)の桟原屋形落成までにほぼ町割りは完成したが、その18年の間にも府中の住民は2度の大火を経験することになった。
 それによって計画も少し変更されたのだろうか。それ以後しばらくは、1732年(享保17年)までは、府中における大火の記録はない。
1811年(文化8年)頃の今屋敷   出典:『(文化8年)対州接鮮旅館図』(地名等拡大及び追加、着色)
厳原大橋から見た本川河口:左が今屋敷、右が大手橋
漂民屋跡:石垣は平成時代のもの
石垣防火壁が県指定の有形文化財に
 前述の3度の大火に加え、1732年(享保17年)、1759年(宝暦9年)、1761年(宝暦11年)、1823年(文政6年)と、史料を辿るだけでも江戸時代に府中は7度の大火に見舞われた。
 そこで遅まきながらではあるが、1841年(天保12年)、藩が防火対策として取り入れたのが、石垣による防火壁だった。
 町の区画を囲むように高い石垣を巡らし、出火してもその区画で延焼をくい止めるのが目的で、民家の軒より高いことが求められた。
 また、防火壁の中には「寛永4年(1627年)」と記されたものもあり、かなり早期から対策を講じた人もいたようだ。
 石垣の防火壁は全国的にも珍しく、1844年(天保15年)に建造された今屋敷の防火壁が、長崎県の有形文化財に指定された。
今屋敷の防火壁(県指定有形文化財)
【地名の由来】 1526年に造営された屋形「池の屋形」がこの地にあり、それを俗に「今屋敷」と称したところから。
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