対馬全カタログ「村落」
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2024年2月11日更新
美津島町
井口
【いくち】
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佐護平野のほぼ中央。
周辺に遺跡が多
弥生後期は佐護の中心か
佐護でもっとも遺跡が集中
 国道も近く佐護の中心と言われるのは恵古だが、井口は佐護平野のほぼ中央に位置する。だからだろうか、佐護の郵便局は井口にあり、かつて佐護郷全体の寄合である「郷集会」は井口で行われたそうだ。
 200mほど海側に下った丘の上に弥生時代後期の遺跡「クビル遺跡」があり、井口の中心にある佐護郵便局北側の「段の下遺跡」が遺物包含地であることから、この辺りには弥生時代以前からの村があったと考えられている。
 また、佐護地域の弥生遺跡は仁田ノ内周辺と井口周辺に集中している。仁田ノ内と井口が弥生後期の佐護の中心集落で、佐護では最も古い白嶽遺跡に近い仁田ノ内が最初に栄え、少し遅れて井口が誕生したのではないだろうか。
佐護周辺地図   出典:国土地理院地形図(地名拡大/施設名追加等)
井口周辺遺跡地図  出典:国土地理院地形図(地名拡大・遺跡名追加等)、長崎県遺跡地図
クビル遺跡は井口弥生人の墓?!
 1921年(大正10年)に村人が山道を普請した際に、石室を発見。その中から土器や青銅器が
 土器は弥生時代後期の北九州では一般的な高三潴(たかみづま)土器、朝鮮半島で漢窯風に焼かれた漢式土器。青銅器は対馬ではよく出土される広形銅矛と、対馬では他に例のない銅鍑(どうふく)で、銅鍑は鉢形の青銅器で煮物を入れるのに用いられるらしく、中国が漢の時代に中国領だった楽浪郡の産と考えられており、鉛同位体比分析によっても原料は中国産ということわかっている。
 クビル遺跡はおそらく墳墓であろうと考えられており、墓は住居空間よりも海側に設ける例がほとんど。井口で暮らしていた弥生人のものと考える方が自然だ。
クビル出土の広形銅矛:1~3世紀の弥生時代後期のもので、長さは88.7cm、重さは3182g  出典:文化庁文化遺産オンライン
クビル遺跡のある尾根(写真左下の集落は友谷、右端に井口の住居が見える)
かつての日本の最前線、井口嶽井口嶽と井口浜
 狼煙の山として有名な千俵蒔山だが、本名は「井口嶽」というそうだ。標高287.3mで頂上付近は草原になっている。
 663年の白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に敗れた大和朝廷軍は、新羅軍の侵攻に備え、当時都のあった飛鳥(奈良)に至る要所に城を築いた。さらに攻めてきたという情報を速く伝達するために、展望のきく山々に狼煙(のろし)連携システムを設置。その最初の山が千俵蒔山(井口嶽)だった。
 頂上からは朝鮮海峡が見渡せ、天気が良ければ半島の山々が望める。怪しい船団を発見したら狼煙を上げ、狼煙はここから下島の方に連携され、壱岐を経由して九州・呼子(佐賀県)、そして太宰府へ伝達された。
現代の井口嶽(千俵蒔山):現在は狼煙台ではなく風力発電がある
江戸時代の食糧増産事業
 江戸時代、対馬藩は多くの年貢を納めさせるために農地拡大を奨励したが、海から少し離れている井口は、海を埋め立てる開き(干拓)は無理だった。そこでまず山を焼き木庭をつくり、次に佐護川の広い河原を畑に変えるという開きを行ったのではないだろうか。
 おそらくそこまでは元禄時代までに完了し、その結果が1700年(元禄13年)の『元禄郷村帳』に記されている物成約76石=収穫高304石(76×4=304)という数字だったのではないだろうか。
 土地に余裕のないはずの井口だが、160年後の1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』では、籾麦(収穫量)が381石と25%も増えている。九州の田代領の農民が入植した歴史があり、彼らの技術によって沼地を水田にしたり、より徹底した開きや土地改良が行われたのではではないだろうか。

1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』 
物成約76石、戸数24、人口111、神社1、寺2、
給人5、公役人19、肝煎1、猟師14、牛35、馬21、船0

1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦381石、家22軒、人口119人、男45人、女49人、
10歳以下25人、牛19疋、馬31疋、孝行芋950俵
ダラ正月とコッパラたたき
 太平洋戦争前は対馬各地で昔からのさまざまな風習や行事が、まだ当然のように行われていた。戦後もしばらくは続いていたが、昭和20年代後半から昭和30年代にかけて多くの伝統が失われていった。
 かつて行われていた対馬ならではの正月行事に「コッパラたたき」がある。“祝い棒”でたたくことで繁栄を呼び寄せる行事自体は全国的にあるのだが、対馬の“祝い棒”は「コッパラ」と呼ばれ、ダラ(タラ)の木の皮をはいでつくった棒に濡れた紙をらせん状に巻き、それを松煙の煤で黒く着色して紙を取り去ってつくる、らせん状の模様が入った棒のことだ。
 この棒で、小屋の入口を叩いてその家の繁栄を、子のいない嫁の尻を叩いて子宝に恵まれるよう、また果樹をたたいて沢山実がなるように、さまざまな繁栄を願う呪い(まじない)のようなものだった。1月15日に行われ、短いコッパラを神棚に供えて新しい年の家族の繁栄を願い、養蜂をやっている家では蜂洞にも供えたそうだ。
 この行事のユニークなのは、祝い棒にタラ(対馬では「ダラ」と呼ぶ)の木を使うということ。タラの木は幹や枝に鋭いトゲが密集して生えており(実際に使うときは樹皮とともにトゲもとるのだが)、タラの木自体に魔除けの力があると考えられていたようだ。
タラの木:タラの芽は山菜として珍重されている(一般に出回っているのはトゲの少ないメダラの芽)   写真:国分英俊氏、國分愛子氏
てんこ盛りの正月行事と師走祭り
 かつての対馬の正月の行事は多く、井口だけでも、6日「ダラ正月」初日にダラの木を採ってくる。7日ダラの木を神棚、小屋、馬屋に供える。7日「吉書焼き」、14日「コッパラ作り」、15日「コッパラたたき、16日「山の神様祭り」、23日「天道様祭り」、28日「荒神様祭り」と、忙しかった。
 その正月の準備をするために「師走祭り」というのがあるという。
 神主に正月にホタケ様、地主様に供える御幣、井口全世帯分(25、6軒分)に魂を入れてもらう儀式を行い、正月に備える。かつては餅米のワラを使って自分たちでしめ縄を作っていたが、最近は餅米のワラが手に入りにくいそうだ。
 「吉書焼き」はかつては佐護の各地区で行っていたが、最近は育成会で佐護全体の行事として行っているそうだ。正月飾りなどを燃やす、いわゆる“どんど焼き”だが、対馬では「ホケンギョウ」などとも呼ばれる。いつの頃からか、小学校教員の指導で書き初めを燃やすようになり、「吉書焼き」が一般的な名称になってきたようだ。
井口名物?、甘い赤飯
 「亥ノ子」といえば、10月の亥の日に、子供たちが各家を回りながら、石などで地面をついてその家の繁栄を願い、そのお礼に少額だがお小遣いをもらうという、日本版ハロウィンともいえる行事だが、井口では全然違っていた。(井口だけでなく、佐護全体のようだが)
 井口では「亥ノ子」は1970年(昭和45年)頃までやっていたそうだ。子供たちが弁当を持って山に登り、山で食事をして楽しい時間を過ごす。そんな行事だったようだ。弁当は、巻き寿司だったり、赤飯だったり。いつもは食べられない、子供たちが喜ぶものだったそうだ。
 そして、その赤飯だが、塩ではなくて砂糖を加えた、甘い赤飯だった。井口で育った人は、やはり赤飯は甘くなくては、と思っているそうだ。
 1月28日の荒神様祭りでも、井口では2カ所の荒神様に詣った後、持ち寄った赤飯をいただくが、その赤飯も甘いそうだ。(これも佐護全体のようだ)
 子供の祭りといえば、3月3日の雛祭りには、竹の枝に紅白の小さな餅を付けて飾り、後日焼いて食べたそうだ。「餅花」と呼ばれ、全国にも同じような風習のところがある。
その他
◎総社神社:井口の氏神様。祭神は女神(おなごがみ)様だという。昭和の初め頃のある日、ある老女の夢に総社神社の祭神から「私は氏神であるのに祭られていない。怒っている」というお告げがあり、さっそく手篤くお祭りした、という逸話がある。女神なので、神無月の10月は出雲に行かず、留守番をしているという。神様が出雲から帰ってくるのを祝う「オイリマセ」の日も、井口では「オイリマセ」ではなく、「神祭り」として幟を立てて祝うそうだ。
総社神社
◎茂の神社:佐護の各村には氏神の神社のほかに郷社である天神多久頭魂神社の遥拝所があり、足の悪い人、病気がちな人など、天神多久頭魂神社までお参りできない人は、遥拝所から拝んだ。鳥居には「茂の神社」と書いてあるが、かつては「茂志登(もしと)神社」といったようだ。
茂の神社
【地名の由来】 昔はこのあたりが佐護川の河口であったのだろうと考え、「江口(河口)」がなまって「井口」になったという説がある。また、かつては「猪口」と書かれたものもあり、佐護の中心である恵古からみて亥の方向(北北西)にあたることから「亥口」→「猪口」→「井口」になったという説もある。恵古から南の方向に「竜の口」という地名があり、それが「辰の口」で「亥口」と対称を成している、と亥口説を補強しているが、竜の口は恵古からは南にあり、辰は東南東。補強していると言えるかどうか。但し、仁田ノ内地区からみれば竜の口は東南にあたり、ほぼ「辰」といっても許容範囲内ではある。
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