イワシの大群来遊は太平洋戦争突入直前から急激に減少し、各地に設けられたイワシの搾油工場も閉鎖された。しかし終戦の半年後、昭和21年2月にサバの大群が発見されると九州の巾着網漁船団たちが大挙して押し寄せ、対馬の東海岸は賑わった。
昭和24年は3月から4月までの2ヶ月間で360万貫(13,500トン)、3億6千万円 という瞬間風速的な豊漁に沸き、昭和27年3月から28年3月までの1年間は、対馬全島で水揚げ1,500万貫(56,250トン)、売上げにして18臆円という、当時としては莫大な数字を達成した。
一重沖は「日本一のサバ漁場」と言われ、一重の村には5、6000人の船員が上陸したが、巾着網のほとんどは島外の経営であり、地元が潤うことは少なかった。恩恵に浴したのは飲食業とフロ屋と、17軒の席貸(置屋)など。一重は120人の従業婦(娼婦)をかかえ、対馬一番の娼街を誇った。