対馬全カタログ「村落」
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2020年7月29日更新
上対馬町
一重
【ひとえ】
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サバ漁で花火のように
沸いた村は、大火によって
静けさを取り戻す
自給自足を破るもの
 昔この村は4、5軒だけの小さな村で、東海岸を北上する船が西泊の港まで到着できない時の一時しのぎの停泊地だったようだ。それが地名の由来にもなっている。
 朝鮮の書『海東諸国紀』によると15世紀中頃には20余戸となっており、元禄の『郷村帳』には33戸116人とある。その後わずかに減少するものの、明治17年頃には33戸と戻し、人口は150人。おそらくこのくらいが、この村が自給自足で養える適当な口数なのだろう。
 それが大正13年の統計では戸数110戸、人口609人と、一挙に3倍、4倍に膨れ上がった。一重の村にもいよいよ市場経済が上陸した。
一重漁港(2003年)
ゲンコツと巾着
 対馬の東海岸では明治40年頃から「ゲンコツ」と呼ばれるダイナマイト漁が盛んになった。北九州の炭鉱から持ち出した火薬を海の中に投げ込み、その爆発の衝撃で浮き上がってきた魚を獲る。もちろん違反漁法だが、昭和初期を最盛期として大いに盛り上がり、一重には12軒もの料理屋があったという。大正13年の人口統計はそれを裏付けるものだ。
 ゲンコツ最盛期の昭和初期に、佐賀県の漁師によってこの村には巾着網も入ってきている。昭和6年には一重の8戸が共同で見よう見まねで巾着網をはじめたが、船の故障等が原因で失敗。しかしその年から昭和14年までの約10年間、北九州や山口からの巾着網の入漁船によるイワシの大豊漁が続いた。しかし対馬の各村々の人々にとっては「とんびに油揚げ」だった。
 なお、ゲンコツ漁は戦後しばらくの間、地元民によって復活したが、あくまでも密漁。長続きはせず、すぐに島外からの巾着網船団にとって代わられた。
空前のサバ景気
 イワシの大群来遊は太平洋戦争突入直前から急激に減少し、各地に設けられたイワシの搾油工場も閉鎖された。しかし終戦の半年後、昭和21年2月にサバの大群が発見されると九州の巾着網漁船団たちが大挙して押し寄せ、対馬の東海岸は賑わった。
 昭和24年は3月から4月までの2ヶ月間で360万貫(13,500トン)、3億6千万円 という瞬間風速的な豊漁に沸き、昭和27年3月から28年3月までの1年間は、対馬全島で水揚げ1,500万貫(56,250トン)、売上げにして18臆円という、当時としては莫大な数字を達成した。
 一重沖は「日本一のサバ漁場」と言われ、一重の村には5、6000人の船員が上陸したが、巾着網のほとんどは島外の経営であり、地元が潤うことは少なかった。恩恵に浴したのは飲食業とフロ屋と、17軒の席貸(置屋)など。一重は120人の従業婦(娼婦)をかかえ、対馬一番の娼街を誇った。
繁栄は一夜にして灰に
 昭和28年頃から巾着網漁船は沖泊りをするようになり、漁場も徐々に南へ移動。一重の繁栄にも翳りがさしはじめたが、この村にとってその幕引き的な象徴的な事件が、昭和30年2月7日の大火だった。
 その日は強風注意報が発令され、一重には漁船約1000隻が避難していたという。村には人があふれていたはずだ。午前3時30分に出火した火は北西風にあおられ、住家39戸、非住家51戸を焼き、2時間後に鎮火。387人の罹災者を出した。原因は席貸業の風呂の火の不始末。この火災で一重の中心は焼け野原となり、前日までの賑わいは跡形もなく消え、当時の金額で数億円の損害を出した。
 その後一重は、漁場の移動や、売春防止法などの時代の趨勢もあり、酔っ払いと喧嘩が横行する街から、穏やかな漁村へと戻っていった。
【地名の由来】 中世の頃は「ひとい」と呼び、その後それを「一夜」と書きしるすようになり、元禄以後に「一重」となったという。かつてここの入江は口が広くて浅かった。泊るとしても一夜だけにした方がよい、というところかららしい。
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