ロシアが昼ヶ浦周辺の租借を求めたのも、この地が浅茅湾のほぼ中心で、朝鮮海峡に出るにも対馬海峡に出るにも便利な、軍事的な要となるロケーションだから。
朝鮮の書『海東諸国紀』は、15世紀後半に40余戸の家があったと伝えているが、おそらく土地さえあれば、もっと増えていただろう。それが1700年(元禄13年)の郷村帳では戸数11戸となっている。この大幅な減少は、やはり江戸時代になって藩がおこなった、朝鮮への自由な往来の禁止と農本政策によるものだろう。明治までほとんど同様の状態だった。
5キロほど南東にある竹敷村は明治時代から大正にかけて海軍特需で賑わったが、昼ヶ浦はまったく恩恵に浴すことはなかった。浅茅湾に突き出た半島の先端という海の好立地は、陸の辺境となり、対馬最後の無点灯集落となった。待望の電灯がついたのは東京オリンピック、東海道新幹線開通の前年、1963年(昭和38年)の10月だった。