浜久須で忘れていけないのが、江戸時代後半に行われた干拓事業だ。当時は「開き」とよばれ、浜久須関連で多くの記録が残されている。
1471年刊行の朝鮮の書『海東諸国紀』に「浜久須」の名はない。当時は玖須川の奥にある「玖須」の一部、枝村として扱われていたことがうかがわれる。浜玖須(実際は「浜楠」)という名が文書に登場するのは1594年(文禄3年)であり、1700年の『元禄郷村帳』には家数27戸、人数70人、物成高(租税)33石の村として記録されている。そこそこの村の体を成している。
江戸時代後期の文化文政の頃、浜玖須では、藩が主導し公役として、開きを百姓たちに行わせた。浜久須の平地の多くは開きによるものと理解してよいだろう。税率の記録がないので単純に比較はできないが、1884年(明治17年)の地租の総計は約40石と増えている。
今、その干拓地の大部分は休耕地となり、さらに一部は総合運動公園になった。ちなみに上対馬総合運動公園は、野球場、テニスコート、体育館、多目的広場、パターゴルフ、弓道場を備えた体育施設だ。