対馬全カタログ「村落」
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2021年6月27日更新
上対馬町
浜久須
【はまぐす】
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津々浦々に古代が眠る対馬。
この村もそのひとつだが、
ここにはさらに滝があった
半島と交流のあった豪族の拠点
 舟志湾の奥の奥にある浜久須には古代に豪族がいたらしいことが、豊富な副葬品を出土した「朝日山古墳」や「霹靂(へきれき)神社」の存在からうかがわれる。入江の最奥部にある町営グランド付近にも石棺が眠っているといわれている。
 浜久須から南へ3~400m行くと、東に突き出た小さな半島があり、朝日山と呼ばれている。その岬の先端部が円墳のように丸く盛り上がり、山上に石棺群がある。出土品には新羅系の陶質土器が多く、鉄製の道具やガラス玉などがあったそうだ。副葬品の状況から5世紀後半の古墳とみられている。
 この地を朝日山と呼んだのは、「朝日さし 夕日かがやくこの丘に 黄金千ばい朱万ばい」と詠われるような朝日夕日の伝説に由来しているのではないか。そして、この伝説の本意は、祭祀にふさわしい場所を示したものと考えられている。
朝日山古墳のある半島(2003年撮影)
「熊野権現」から「霹靂」へ由緒変え
 「霹靂(へきれき)神社」はその朝日山古墳をご神体のようにして祭られ、本殿は山の中腹に、拝殿はその下の海辺にある。「霹靂」とは、急に聞こえてくる雷のこと。ちなみに「青天の霹靂」とは、晴れているのに突然雷が聞こえてくる程の意外な驚き、という意味になる。
 霹靂を「いかづち」と読ませ、霹靂(いかづち)神社としたのは天明の頃(1780年代)で、雨乞い祈願に御利益があると言われており、それが名の由来ではないかと考えられる。それまでは「熊野三所権現」、あるいは「熊野権現」と言われていたらしい。
 古い神社の由緒は記録のない場合が多く、後世にそれを決定するのは難しいそうだ。この神社の由来は確かではないが、朝日山古墳と関係があるとすれば、かなり古い神社であり、式内社の「能理刀(のりと)神社」ではないかとも言われている。
朝日山古墳と霹靂神社
朝日山の中腹に建つ本殿
鳴滝と、この村ならではの雨乞い行事
 高い山が少ない対馬には滝が少なく、一般の人が見られる滝はほんの数瀑に過ぎない。その中の一つ、「鳴滝(なるたき)」は浜玖須の北東にあり、昔から景勝地として知られている。
 「鳴滝」の名の由来は、その流れ落ちる水の音が付近に鳴り響くことからだが、さまざまな滝を見てきたであろう島外からの観光客が、少々小ぶりな印象を持つのは否めない。
 この鳴滝だが、滝は竜神の住処(すみか)とされ、雨乞い祈願の聖地とされていた。ここでは雨乞い行事として“女角力(おんなずもう)”を行うならわしがあったそうだ。
鳴滝様を喜ばすため、女たちは角力をとった
 祈願の日、村の女たちは鳴滝の前に集まり、石原にひれ伏して雨乞いの祈願を行う。そしてそれが終わると、女たちは褌ひとつになって川の中に入り、思い思いに相手を選び、角力をとったり、川の中ではしゃいだりして、鳴滝様を喜ばしたそうだ。それを男がのぞいたりしたら、鳴滝様がお怒りになり、霊験は失われると信じられていた。昭和20年代までは行われていたらしい。
 前述の「霹靂神社」が雷神で、鳴滝様が竜神。浜久須には雨乞いにとっては頼りになる竜神と雷神の二神がいることになる。つまり、雨乞い最強の村、ということになる。
鳴滝と霹靂神社の位置
江戸時代、干拓で農業を拡大し発展か
 浜久須で忘れていけないのが、江戸時代後半に行われた干拓事業だ。当時は「開き」とよばれ、浜久須関連で多くの記録が残されている。
 1471年刊行の朝鮮の書『海東諸国紀』に「浜久須」の名はない。当時は玖須川の奥にある「玖須」の一部、枝村として扱われていたことがうかがわれる。浜玖須(実際は「浜楠」)という名が文書に登場するのは1594年(文禄3年)であり、1700年の『元禄郷村帳』には家数27戸、人数70人、物成高(租税)33石の村として記録されている。そこそこの村の体を成している。
 江戸時代後期の文化文政の頃、浜玖須では、藩が主導し公役として、開きを百姓たちに行わせた。浜久須の平地の多くは開きによるものと理解してよいだろう。税率の記録がないので単純に比較はできないが、1884年(明治17年)の地租の総計は約40石と増えている。
 今、その干拓地の大部分は休耕地となり、さらに一部は総合運動公園になった。ちなみに上対馬総合運動公園は、野球場、テニスコート、体育館、多目的広場、パターゴルフ、弓道場を備えた体育施設だ。
【地名の由来】 「久」は古いの意。「須」は洲で、「久須」は古い砂洲ということ。「浜」は少し内陸にある同名異郡の村・玖須(くす)と区別するために付加したもの。
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