対馬全カタログ「村落」
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2020年8月2日更新
上対馬町
五根緒
【ごにょう】
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120年前、村の将来を考え
村移りを先導した
若者たちがいた
中世に栄え、江戸時代に低迷
 「ごにょう」という、なんとも不可思議な名称の村は、1471年の朝鮮の書『海東諸国紀』にも登場しており、戸数100余戸となっている。ただその地は、現在の村から西北西に2km離れた、舟志湾南岸の浦に位置した。当時100戸と記載された村は多くはない。当時船の出入りでにぎわった西泊と同様に、この村も漁業や製塩、交易で栄えたと見られている。
 しかし、江戸時代になり密貿易が厳しく取り締まられ、村の存立基盤を農業にする政策(農本主義)がとられると、この村は大きく揺れた。非農家はつぶれ、元禄の頃(1700年頃)には戸数25戸に、その後20戸くらいになり、それが明治の初期まで続く。
村の発展のために、村ごと引っ越す
 明治に入ると、対馬の漁業を制限するものがなくなった。北九州や瀬戸内海から多くの漁師が入り、対馬沿岸で自由に漁獲をあげていた。おそらくこれからの五根緒の発展は漁業にあると考えたのではないだろうか。あるいは単に広い農地を求めたのだろうか。当時20代半ばの篠田浅之助は、土地が狭く不便な立地ゆえに村の発展に限界があると、村の全戸移転を提案した。
 村移りは1879年(明治12年)から3年をかけ、篠田浅之助をはじめ30歳前後の働き盛りを中心に、村中一致団結して達成された。その後、村は感謝のしるしとして、篠田浅之助に共有林の一部を与えたという。なお、古い村は元五根緒と呼ばれ、現在でもかつての石垣などが残っているそうだ。
元五根緒の位置は江戸期の地図で確認できる。現在の五根緒は赤丸の所
岬に石積みの塔、その名も塔ノ崎
 五根緒から南東800mほどのところに、塔ノ崎と呼ばれる、4基の石積みの塔が並んだ岬がある。塔の発生年代は明らかではないが、塔ノ崎の地名は元禄時代の地図にもあるので、塔はそれ以前からあったと思われる。また、「塔ノ鼻」とも呼ばれ、最近は「鼻」で呼ばれることことが多いようだ。
 4基のうちの大きい2基は比較的新しく、おそらく村移り後に、元五根緒にあった天道の塔が移築されたのではないかとも言われている。(元五根緒の西には天道山がある。)古い2基も、新しい塔と同様に天道祭祀の塔ではないかと思われているが、その塔を積んだのが果たしてどのような人たちであるのか、近世初期に付近に村があったという史料がないので、依然なぞのままだ。
 岬の丘の上には曽祢崎神社が鎮座し、小さな赤い祠と鳥居が、石積みの塔と相まって独特の雰囲気を醸している。これは元五根緒にあった神社を、村移りの時に現在の地に遷したものだ。
塔ノ崎
新たな存亡の危機に
 五根緒がもっとも賑わったのが、他の対馬の村々もそうであるように大正の頃だ。明治になって対馬の海が解禁されると、本土の方から多くの漁業者が押し寄せ、新しい集落を構成したり、既存の村には寄留として定住した。
 1926年(大正12年)、58戸388人。40年前の1887年(明治20年)より戸数・人口とも3倍以上に増えた。しかし、翌年の1927年(大正13年)には、戸数53戸人口395人に。1年で戸数が「5」も減るのは、外来漁業者が退出したからに他ならない。この頃から対馬周辺の漁獲量が減ってきた。
 時代が50年ほど下った1980年(昭和55年)には、戦争、集団就職等を経て31戸114人に落ち着くが、それからは少子高齢化が押し寄せることになる。戸数はあまり変わらず人口だけが減る。2017年(平成29年)は24戸41人。
 人口の半数以上が65歳以上というのを「限界集落」と呼ぶのなら、おそらく五根緒は限界集落。 この状況が続くと、住民の死去や転出に伴い集落の維持が難しくなり、無人化するということらしい。現代の篠田浅之助は現れないのだろうか。
漁港として港湾設備は整ってはいるが
【地名の由来】 かつては「おにょう」と呼ばれていたが、それが訛って「ごにょう」となったといわれている。「おにょう」の由来は不明。
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