対馬全カタログ「村落」
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2024年11月19日更新
美津島町
賀谷
【がや】
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付近に弥生初期の洞窟遺跡。
幕末までは10軒ほどの村が
昭和にはイカ漁景気で280軒
対馬では珍しい弥生初期の洞窟遺跡
 隣村の芦浦との間にあるウメノキサエの自然の洞窟で、貝塚が発見された。貝塚は小さかったが、貝殻とともに弥生初期の遠賀川式土器を発掘。それによって洞窟住居跡であることが確認され、「賀谷洞窟遺跡」と命名された。貝の種類は現在もこの近辺の海で多く獲れるクマノコガイ、レイシ、サザエなどだったそうだ。
 遺物包含層が薄いことから短期間の居住と考えられているが、どのような状況下で洞窟を仮の住まいにしたのだろうか。戦いがあり、逃げてきて洞窟に隠れたのだろうか。集団からはじき出されて、一時的にここに住んだのだろうか。あるいは移動の途中に、しばらく洞窟に長逗留したのだろうか。戦時中は防空壕にも使われたそうだが、破壊されずに残っていたという。
 さらに、国道382号から賀谷へ入るT字路の少し南の丘の上で、箱式石棺2基が発見された。弥生時代から古墳時代にかけての墳墓で、「賀谷遺跡」と名付けられ、当時そこは岬であったと推定されている。
賀谷周辺地図   出典:国土地理院地形図(地名拡大、遺跡等追加
中岳の海賊退治に功あり
 1471年(文明3年)、襲封後3年の島主宗貞国は、筑前の地で少弐氏とともに大内氏との戦いに明け暮れていた。兵の多くも筑前にあり、対馬の守りがおろそかになっていたそのスキをつき、賊船が沿岸の村々を襲うことがあったようだ。
 その中で歴史に残る大事件となったのが、鈴木太一を首領とした海賊による中岳占拠だった。彼らは中岳に居座り、近隣の村々を襲った。被害が大きかったのが中岳にもっとも近い賀谷だった。
 それに対し、島主不在の宗家側は、佐護の宗四郎貞常が征伐隊を結成。賀谷と濃部の間の坂ナシで、宗四郎が鈴木太一を射止め、海に逃れようとするところを横浦の助右衛門が舟の櫓でとどめを刺したと言われている。
 この征伐隊に、江戸時代を通して村で唯1軒の給人だった佐々木家の先祖 宗国親も加わっており、大いに活躍したそうだ。そして、その働きが認められたからだろう、賀谷周辺の守護を任され、賀谷及び横浦の一部などを拝領したことが文書として遺っている。
 因みに、助右衛門が鈴木太一を仕留めたところが横瀬という瀬で、助右衛門は横瀬という姓を賜り、横浦に知行を得ることになった。横瀬は、現在の恵比須神社の鳥居の あたりだったらしい。
『宗氏家譜』にも鈴木太一事件の顛末が簡潔に記されている   出典:九州国立博物館「対馬宗家文書データベース」
「元賀谷」から移住
 海賊事件後、その再発を防ぐために派遣された宗国親が赴いたのは、現在の賀谷の地ではなく、芦浦側に深く入った細い浦の奥だった。そこが当時の賀谷村で、その後、江戸時代中頃までにはそこは「元賀谷」と呼ばれるようになり、新しい賀谷と区別された。
 元賀谷には「寺前畑」という地名が遺されている。付近には寺の跡らしき石垣があり、その名の由来となる寺がそこにあったと考えられている。
 また、宗家から佐々木家に入り、一時は佐々木を名乗った宗茂親の墓も元賀谷にあると江戸時代の文書にある。
 いつ頃現在の賀谷の地が開かれ、移住が始まったかは明確ではないが、おそらく対馬藩で土地開発が奨励され、それによって耕作地が増えていった元禄時代前後ではないだろうか。『対州八郷給人分限帳』に佐々木氏が宝永2年(1705年)に土地を開いたことによって給分が加増された、と記されている。宝永の前の元禄年間に大規模な干拓が進められたと考えてよさそうだ。
 賀谷地区では、移住は「400年くらい前だろう」と言われているが、実際は1700年±20年前(320±20年前)ではないだろうか。
開きによる生産量倍増の江戸時代
 1700年(元禄13年)に幕府に提出された村々のデータをまとめた『元禄郷村帳』で、対馬で最もデータのヌケが多いのが賀谷だ。
 物成約8石、戸数11、人口62、神社ヌケ、寺ヌケ、給人ヌケ、公役人ヌケ、肝煎1、猟師3、牛6、馬0、船4。
 取材によって、賀谷では昔から「本戸6軒」と語り継がれてきており、公役人は6軒だったことが推測できる。給人も『対州八郷給人分限帳』から佐々木家1軒だったことがわかった。
 1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』では、籾麦70石、家14、人口64、男28、女31、10歳以下5、牛14、馬6、孝行芋840俵、となっている。
 米と麦の生産量が32石(8石×4)から70石と倍増(2.2倍)。開き(干拓)等によって耕作地が倍になったということだろう。前述の宝永2年(1705年)の加増をもたらした開地が、大きく貢献しているようだ。
 明治初年のデータでは本戸が9戸に増えており、耕作地と生産量の倍増が村に余裕を生み、年貢を納める農家が1.5倍に増えた。
イカをめざして島外から漁師が大挙移住
 賀谷地区は対馬のイカ漁の中心のひとつ。イカ漁師のほとんどは島外からの移住者だが、賀谷にイカ漁師が住み始めたのは何年頃だったかは明確ではない。
 1904年(明治37年)のデータによると、対馬でイカ釣り漁に従事していたのは3,489戸で、その内美津島町東海岸(鶏知を除く)を拠点にしていたのが1,044戸。おそらくその中には賀谷在住のイカ漁師もかなりいたのではないだろうか。
 賀谷に移住してきたがイカ漁師のほとんどが、浄土真宗の門徒だった。真宗の寺としては既に厳原に光清寺があったが、永住を決心しこの地で亡くなった親を弔うためにもっと身近に寺がほしい、ということになり、2世、3世たちは新寺建立の嘆願書を提出。第二次大戦後、その許可がおり称福寺が建立された。
賀谷漁港:イカ漁最盛期には、岸壁にスキ間なく船が係留されていたという
イカ釣りの近代化に貢献
 1978年(昭和53年)に発刊された『美津島町誌』は、島外から移住したイカ釣り漁師が、新しい漁法や道具を導入し、それを改良して普及させたことを述べ、さらにその中心の一つが賀谷であったと書いている。  昭和40年代にいち早くイカ釣り漁船の大型化に取り組み、近海だけでなく日本海のほぼ中央にある大和堆(やまとたい)を主漁場とし、水揚げは新潟や鳥取県境港で行った。当初は20トンクラスでも大型と呼ばれたが、その後50トン、100トンクラスまで登場し、北海道沖まで出漁したという。
イカ漁の衰退が過疎化を加速
 1990年代になると、北海道沖でイカが獲れなくなったのをターニングポイントに、イカの漁獲高は徐々に減少していったと言われている。対馬のイカ漁も縮小の一途をたどっており、数え切れないほどの漁火を目にするようなことはなくなった。
 さらに近年の燃油高騰が加わり収益が悪化していることから、出漁を見合わせる船も多いという。イカ漁師のなり手が少ないこともあり、イカ漁からの撤退も増えている。
 かつてイカ釣りが目的で賀谷に移住してきた漁師たちが、今度は大きな市場である関西に近く、港湾設備の整った境港に移住し、人口が激減。イカ漁最盛期は280世帯もあったが、2024年は70世帯ほどだという。
対馬のイカ水揚げ量の推移:対馬のイカ釣りは、昭和30年代の自動巻上げ機とパラシュートアンカーの普及により発展したと言われている。1973年(昭和48)、1980年(昭和55年)、1992年(平成4年)をピークに漁獲高は徐々に減少している。
賀谷発、藻場の再生プロジェクト
 海藻の群落「藻場」が衰退・消失していく現象、「磯焼け」が全国で問題になっているが、対馬では2000年頃から異変が起こり始め、2013年頃から顕著になってきたそうだ。対馬の沿岸部の全ての藻場が消失したと言われており、海洋生態系に及ぼす影響はもちろん、漁業に与える打撃も深刻だ。
 この危機的な状況に対して立ち上がったのが、NPO法人賀谷藻場保全会だ。
 科学的知見に基づいた保全活動を展開するために、定期的な藻場モニタリング調査を実施。さらに、藻場再生のため、海藻の種苗を投入し、海藻を主食とする魚、イスズミ、アイゴなどの天敵となるアオリイカの資源保護に向け、間伐材を利用した産卵床「イカ柴」を海中に投入する活動を主導している。
 さらに土壌が海へ流入するのを防ぐために、植林、下草刈り、果樹生産などの里山再生活動を展開している。
 また、2022年(令和4年)にNPO法人賀谷藻場保全会の取り組みが、環境省の令和4年度 「令和の里海づくり」モデル事業の一つに選ばれ、活動がさらに充実してきている。
賀谷の永和橋とアマモ
植林地の案内看板:森の再生がツシマヤマネコの生息環境を整え、里海の再生、藻場の復活にもつながるところから、「ガヤモバ(賀谷藻場)とヤマネコの森」と名付けられた
「馬屋かろう」と「石垣かろう」
 江戸時代後期の江戸詰藩士 中川延良が地元情報の聞き書きをまとめた『楽郊紀聞』に、賀谷の面白い話として「馬屋かろう」 「石垣かろう」というのが紹介されている。
 朝働きに出る前に、男たちが、石垣や馬屋の壁に寄りかかって相談している様を、他の村の人が「石垣をかろうとる」「馬屋をかろうとる」という風にからかった言葉から出たようだ。 石垣などに寄りかかって相談するのは、賀谷の村の習慣だったのかも知れない。
 さて、石垣も馬屋もない、現在はどうだろう。
恵比須神社と乙宮神社
 賀谷地区の氏神、恵比須神社の祭神は、「山幸彦」として知られる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)。豊玉姫と結ばれ、鵜茅草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)をもうけ、その子が神武天皇となる。つまり神話上ではあるが、初代天皇の祖父にあたる神だ。
 境内社として乙宮神社があり、こちらには鵜茅草葺不合尊と、豊玉姫の妹である玉依姫命(たまよりひめのみこと)が祀られている。この二神が夫婦となり、神武天皇をもうける。乙宮神社があるということは、室町時代に製塩を行っていた可能性が高い。
 現在は金比羅神社も合祀し、鳥居には「恵比須神社」 「金比羅神社」の2枚の額束が掲げられている。
恵比須神社/金比羅神社
【地名の由来】 本文参照。
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