対馬全カタログ「村落」
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2023年7月27日更新
上県町
恵古
【えこ】
i
佐護平野の中心地は
遺跡、観音、歌上手
の村だった
対馬考古学の出発点
 佐護川流域は対馬で最も豊かな稲作地帯として知られ、佐護平野とも呼ばれる。その豊かさをバックにこの地の豪族は勢力を伸ばしたのだろうか、弥生時代に大いに繁栄したことが、12という遺跡数や遺物の多さから推測できる。
 恵古にもっとも近い佐護白嶽遺跡は、この村の北西の川向うにある岩山(白嶽)の西にある。弥生時代後期から古墳時代にかけての遺跡で、考古学界でも有名な遺跡だ。石棺群から弥生式土器、陶質土器、銅剣、鉄剣、腕輪などが明治後期に発掘されたが、その後遺物は散逸し、現在では資料が残るのみだ。
写真中央の小山が佐護の白嶽
石棺 (2003年)
かつて北の亀卜の里だった
 日本の亀卜の発祥は対馬であり、対馬の亀卜の発祥は阿連だったが、島主の宗家は対馬の吉凶を、豆酘と佐護で占わせた。それにより阿連の亀卜は廃れたが、佐護では明治4年の廃藩まで、ここ天諸羽神社で毎年旧暦の正月3日に亀卜神事が執り行われた。祭神は、宇麻志麻治命 天児屋根命 雷大臣命の3神とされ、いずれも卜部の祖神とされている。
 「天諸羽(あめのもろは)」の「諸羽」は、どこからきているのか。「諸刃」とも「双葉」とも考えられるそうだが、「諸刃」と考えると、亀卜の祖神が雷大臣であるところから、雷が農業に欠かせない雨をもたらしながらも、洪水等を生む“諸刃の剣”であるところからではないかと考える研究者もいる。
佐護の天諸羽神社
対馬六観音の北の聖地
 佐護には恵古の他に、深山、仁田ノ内、井口、友谷、湊という村があり、その六ヵ村の中心地として古より栄えたのが恵古だった。それは佐護では唯一ここだけに観音堂があることからも証明される。しかもここの観音堂は対馬六観音のひとつ。最北の六観音だ。
 対馬の観音信仰は対馬独特の宗教である天道信仰と結びついており、かつてここの観音堂は天諸羽(あめのもろは)神社の境内にあった。正月の亀卜神事もその観音堂の前で行われた。それが明治初年の神仏分離で引き離され、現在の白嶽南麓に落ち着いたという。本尊の聖観音立像は室町時代の作らしい。
白嶽と赤い屋根の観音堂(2003年)
観音信仰と歌上手
 恵古は、宮本常一著『忘れられた日本人』に登場する。1950年(昭和25年)にこの村を訪れた宮本はそこで歌の上手な老翁と出会ったことが切っ掛けで、中世末期から明治の終わり頃まで対馬で盛んだった六観音参りについて知ることになる。
 六観音参りは、男も女も群れになって巡拝したそうだ。彼らは民家に泊まり、そこに集まった村の青年たちと夜更けまで歌い合い、踊りあった。歌のかけあいは歌合戦になり、節のよさや文句のうまさで勝負したそうだ。興がのるといろいろなものを賭けて争い、男と女の対決では身体を賭けることも少なくなかったという。だから明治に育った対馬の人たちは歌上手が多く、芸達者だったとか。
佐護の観音堂(2003年)
観音堂で年始めの恒例行事「大般若様」
 佐護観音堂で行われる年始めの伝統行事で、今も続いている行事に「大般若(だいはんにゃ)様」がある。
 1月11日、深山にある瑞雲寺の大般若経の経本600巻を、恵古、仁田ノ内、深山の3地区の代表計6人が100巻ずつ背負い、約1.5km離れた観音堂まで歩いて運ぶ。「背負う」を対馬では「からう」という。そこからこの行事は「大般若様からい」とも呼ばれる。
 観音堂では僧侶が読経し経本を扇のように繰りながら、参拝した住民らの頭や肩に当て、家内安全や子孫長久を祈願し一年のお払いをする。
 600年続いているといわれる由緒ある行事で、現在の経本は3代目。1代目は深山の地蔵院の経塚、2代目は瑞雲寺の経塚に納められているそうだ。
 また、恵古は佐護の中では弘法大師信仰が盛んで、3月21日の「お太子様」の日には、佐須奈の八十八カ所霊場にお参りしたそうだ。
田園の英傑、 佐護長右衛門
 恵古を語るに忘れてならないのが、佐護長右衛門だ。1713年(正徳3年)、恵古に生まれ、20歳で恵古の下知役、1741年(寛保元年)に佐護郷の奉役(うけたまわりやく)という佐護郷のトップに就いた。
 就任すると、村の風紀改善、倹約の徹底、優れた人材の登用、百姓の負担軽減など、さまざまな方策により多くの村を立て直していった。
 73歳で退任するが、2年後には新設された「八郷吟味役」という、対馬全体を吟味するというさらに大きな役職を命ぜられ、3年間務めた。
 1963年発行の『新対馬島誌』では、長右衛門を「田園の英傑」という形容を冠して、彼の功績を紹介している。
 没年は1793年(寛政5年)、81歳。当時の男性としてはかなりの長寿だった。
【地名の由来】江戸時代の書には「江湖」が語源ではないかとある。江湖とは潟(潟湖)のこと。この辺りまで海水が入ってきていたという記録はないが、潟のような沼地があったのだろうか。
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