阿須窯は、厳原市街の北東、阿須湾に面した藩の阿須屋敷内にあった。職人の来島記録から、1855年か1856年に開窯したと推測されている。
藩が経営する、いわゆる藩窯だったが、田代領から職人を呼んでいるところから、焼成されたのは釜山窯の流れをくむ対馬焼ではなく、伊万里系の磁器だったと推測されている。目的は、島内の需要を満たすことと、朝鮮への輸出だったようだ。
しかし、開窯してから約6年後の1862年(文久2年)、わざわざ呼び寄せた職人たちを帰しているところから、この頃に藩窯としての阿須窯は閉窯したと考えられている。
明治になると、1883年(明治16年)頃に、「士族授産陶器製造伝習所」として阿須窯が再興され、有田から来島した江副延三郎が中心となって朝鮮輸出用の磁器を焼いた。
「士族授産」とは、 職を失った士族の救済のためにとられた明治政府による助成事業のことだが、阿須の「陶器伝習所」は朝鮮への輸出用の磁器を焼いた。しかし1888年(明治21年)の朝鮮の大干ばつと不景気により暗礁に乗り上げ、それが収束すると今度は1891年(明治24年)に「士族授産」の終了となった。
その後、阿須窯は払い下げられ「阿須陶器社」となったが、経営不振が続いたようで、1904年(明治37年)頃に廃窯になったと考えられている。