対馬全カタログ「村落」
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2021年5月9日更新
厳原町
阿須
【あず】
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海水浴場として愛された
阿須は、実は
対馬長石生産地でもあった
「大阿須」と「小阿須」
 古代に北九州の宗像を拠点にした海人・阿曇磯良が神功皇后を阿須浦に迎えたという伝説があり、かつては「安曇浦」とよばれたと言われている。また、中世の朝鮮の書『海東諸国紀』では「安沙毛」と表記され、地名だけで戸数は記載されていない。
 阿須は、「大阿須」「小阿須」と分けてよばれ、「大阿須」は厳原町北里側だが、阿須川の西側、山が海に接近している所辺りまでが大阿須だ。そして、かつて大阿須の浜は、厳原市街の人々の海水浴場だった。砂浜ではなく丸い石の浜だったが、家族連れ、小中学生で賑わった。
 また、「大阿須」には宗家の別邸「阿須屋敷」があった。周辺には藩士たちの住まいもあったのではないだろうか。
 一方の「小阿須」は、徹底して漁師の村だった。こちらは磯遊びに最適で、厳原の子供たちが小阿須に遊びに行く場合は、日吉からの山越えが当たり前だった。
川から東側の狭いエリアが海水浴場で、1960年代、対馬でもっとも賑わった海水浴場だった
(国土地理院2万5千分の1地形図より)
初めから藩窯としてスタートした阿須窯
 阿須窯は、厳原市街の北東、阿須湾に面した藩の阿須屋敷内にあった。職人の来島記録から、1855年か1856年に開窯したと推測されている。
 藩が経営する、いわゆる藩窯だったが、田代領から職人を呼んでいるところから、焼成されたのは釜山窯の流れをくむ対馬焼ではなく、伊万里系の磁器だったと推測されている。目的は、島内の需要を満たすことと、朝鮮への輸出だったようだ。
 しかし、開窯してから約6年後の1862年(文久2年)、わざわざ呼び寄せた職人たちを帰しているところから、この頃に藩窯としての阿須窯は閉窯したと考えられている。
 明治になると、1883年(明治16年)頃に、「士族授産陶器製造伝習所」として阿須窯が再興され、有田から来島した江副延三郎が中心となって朝鮮輸出用の磁器を焼いた。
 「士族授産」とは、 職を失った士族の救済のためにとられた明治政府による助成事業のことだが、阿須の「陶器伝習所」は朝鮮への輸出用の磁器を焼いた。しかし1888年(明治21年)の朝鮮の大干ばつと不景気により暗礁に乗り上げ、それが収束すると今度は1891年(明治24年)に「士族授産」の終了となった。
 その後、阿須窯は払い下げられ「阿須陶器社」となったが、経営不振が続いたようで、1904年(明治37年)頃に廃窯になったと考えられている。
磁器焼成には欠かせない長石を産出
 知る人ぞ知る対馬の特産品「対馬長石」採掘地があり、約100年前から掘られている。工業用原料だが、もっとも一般的なのが衛生陶器、つまり陶器製の便器やシンク。メーカーとしてはTOTO、LIXILなどだ。それに最近は少なくなったがタイルや、電柱や送電鉄塔のガイシなどにも使われている。
 1917年(大正6年)にに八重島鉱山が創業し採掘を開始。現在は八重島窯業原料株式会社が事業を継続している。
 採掘場は阿須地区の厳原町東里エリアで、2020年時点で直径約250m、高低差40m。未採掘部分も含めると面積約10万㎡にもなり、ここだけであと20~30年は採掘可能だという。
写真提供:八重島窯業原料(株)
【地名の由来】 古より阿曇浦(あずみうら)と呼ばれていたと言われる。阿曇磯良と神功皇后の伝説に因んでか。
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