対馬全カタログ「村落」
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2023年7月9日更新
上対馬町
網代
【あじろ】
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数々の苦難を
乗り越えてきた
七転び八起きの村
網代村誕生のなぞ
 網代という村がいつの頃からこの地にあったのか、はっきりは分かっていない。朝鮮の書『海東諸国紀』の地図で網代の位置が比田勝と舟志(しゅうし)の間にあるので、おそらく1471年には現在の地にあったであろうとされている。
 また、1455年に朝鮮の漂流者を助けて朝鮮から官職を受けた網代村の住人が、1476年の朝鮮使節が西泊に滞在中に、酒肴をもってねぎらいにきた、という朝鮮側の記録がある。網代村は西泊湾の現在の地にあったということになる。
  特にこの村の発生に関心が寄せられるのは、この村がかつて鰐浦の沖にある三ッ島を村領とし、江戸時代初期にその地の耕作を鰐浦の百姓に任せていたという文書があるからだ。つまり、かつて鰐浦の東(妙見瀬戸付近と言われている)に住んでいた百姓が、ここに移住したと考えられており、それがいつだったのか、またその理由は何なのか。それを説明する史料はまだ発見されていない。もちろん移住前に現在の地に網代村が既に存在していたと考えることもできるが。
網代は漣痕(れんこん)で有名。漣痕(右の斜面)は太古・地質時代の水流の痕で、長さ140mと日本最大級。
困窮を乗り越えて
 『海東諸国紀』には戸数20余と記載されているが、その約100年後の天正年代の記録では、家数8、藻小屋25となっている。(藻小屋とは畑の肥料となる藻を入れておく小屋。)
 さらにその約100年後の1686年(貞享3年)には百姓は2軒だけになった。おそらく1660年から1663年に行われた寛文検地による改革によって百姓が続けられず、逃亡したか、あるいは奴婢にされてしまったのだろう。2軒では土地が耕しきれず、村に課せられた年貢も収められない。そこで藩は舟志村から百姓4軒を移住させた。
 1700年の『元禄郷村帳』のデータでは、戸数9のうちに給人2、社寺2があり、肝煎(庄屋)が2人もおり、公役人の数がヌケている。ここからも、この村の特殊な状況が伝わってくる。
 1731年(享保16年)のデータでは、享保年間に廃村となった三宇田村からの移住者も加わったのだろう、家数は13軒に増えたが、1768年(明和5年)には7軒。その後、村はさらに困窮し、1789年(寛政元年)の記録では村船を持つことができなかったほどだったという。
 しかし、1838年(天保9年)には家数11軒で、船も11艘。牛は10頭、馬3頭と、窮状は回復しており、明治になると、島根県、山口県、広島県、福岡県などから多くの漁業移住者があり、戸数、人口とも大幅に増えることになる。1924年(大正13年)には戸数30戸、人口205人になった。

『元禄郷村帳』 元禄13年(1700年)
物成約18石、戸数9、人口37、神社1、寺1、
給人2、公役人ヌケ、肝煎2、猟師ヌケ、牛5、馬1、船2

文久元年(1861年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦116石、家12軒、人口76人、男30人、女35人、
10歳以下11人、牛9疋、馬8疋、孝行芋805俵
対馬の近代捕鯨始まりの地
 1839年(天保10年)に網代から南東へ1.5kmほど離れた尾浦に鯨納屋が置かれた。その年の10月に鯨積船が尾浦から直接出帆することが藩から認められたという記録が残っている。浦底の海岸線からさらに250mほど奥に石組みの古井戸が残されているという。
 1908年(明治41年)、網代村民の誘致活動により近代捕鯨の基地が置かれた。鯨から鯨油や肥料をつくる網代肥料製造会社も設立されたが、捕獲頭数が十分ではなく、あまり実績はあがらなかったという。1920年(大正9年)に基地が河内に移るまで続いた。
対岸から尾浦を望む
漁業中心の村として
 1980年(昭和55年)の国勢調査では、戸数はこの村としては多いともいえる49戸で、人口は192人。その35年後、2015年(平成27年)では戸数37戸、人口85人。戸数は12戸減だが、人口は半減以上、約4割になった。しかし、対馬の他の村ほど過疎化は進んでいないともいえる。
 網代は元来田畑となる土地は少なく、江戸時代の困窮も藩が求めた農業主体の経済では成り立たなかったからだろう。現在の網代は漁業中心の村。あるべき村の形になったといえるのではないだろうか。ただし、近年、温暖化による漁場の移動か、海洋資源の減少か、対馬全体で不漁が続いている。先人に習い、この危機を乗り越えていってほしい。
【地名の由来】 入江の形が網代(定置網の一種)に似るところから。
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