1891年(明治24年)には豆酘小学校の分校として浅藻小学校が開設された。浅藻がもっとも賑わったと言われているのが大正の頃で、戸数も200戸を数えた。中には明治維新で国有林となった龍良山系で働く林業関係者もいたが、多くは漁民だった。その浅藻繁栄の鍵を握ったのが、“納屋”。今で言う問屋だ。対馬が豊かな海をかかえていながら、漁業が発展しなかったのは、獲った魚を商品として流通させる努力をしなかったからに他ならない。
まず厳原の亀谷が小浅藻に、そして倉成が中浅藻に納屋を開いたが、瀬戸内の漁師達はそれで満足をしなかった。久賀の漁師たちは、問屋を連れてきた。それが五島新助。彼のおかげで浅藻は着実に発展していった。「浅藻開拓の父」と言われる所以だ。
その後、神崎灯台の水汲み、炭の仲買いから、運搬船経営者となった市丸馬太郎が機械船を導入し、生魚運搬、生魚問屋へと事業を拡大。浅藻は遠洋漁業の中継地ともなり、繁栄を極め、市丸は「浅藻を牛耳った」とまで言われるような存在になった。