2026年2月3日更新
厳原町
浅藻
【あざも】
宮本常一に描かれた村
1950年(昭和25年)7月の、一人の民俗学者とある老漁師の出会いが、この村を有名にした。民俗学者の名は宮本常一。そして老人は、村の名以上に有名になった梶田富五郎翁。1960年(昭和35年)に上梓され、今も売れ続けている超ロングセラー『忘れられた日本人』(岩波文庫)に二人は登場し、明治という時代の日本人の生きざま、そして浅藻という特殊な村の成り立ちを、一個人の人生を通して鮮やかに描いている。
長崎県が企画した書籍『長崎県文化百選/壱岐・対馬編』にも、対馬の名所名物とともに、対馬聖人といわれる陶山訥庵(1)やあの雨森芳洲(2)とともに、梶田富五郎翁がページタイトルとして大きく扱われ、浅藻の歴史が紹介されている。
1950年の中浅藻 写真提供:宮本常一記念館
浅藻周辺地図 出典:国土地理院地形図(地名拡大、地名追加等)
一度消えた村と天道信仰
浅藻は弥生時代には村があったと推測されており、15世紀の朝鮮の書『海東諸国紀』には戸数15と記載されている。しかし富五郎翁をはじめ久賀の漁師が住み始めた明治初期、そこは無人の浦だった。
対馬には土着信仰として天道信仰(3)があるが、浅藻川の2キロ上流に「八丁角(八丁郭)」という天道の聖域があり、そのかなたに聖地である竜良山がそびえる。天道信仰では、侵してはならない聖域を天道シゲといい、そこに住むことは禁忌とされた。浅藻も江戸時代に天道シゲとなり、村人は立ち退いた。それは江戸時代の中期から後期にかけてことと言われている。また、記録では、1827年(文政7年)6月に大雨で浅藻の畑が2カ所が水損したとあるので、耕作に入るのは認められていたのかも知れない。
八丁郭(撮影2003年)
出稼ぎ漁から定住へ
その浅藻に何ゆえ、瀬戸内海周防大島の久賀の漁師たちが住み着くことができたのか。対馬に入漁していた向洋の漁民から大漁の情報を得た久賀の漁民は、1813年(文化10年)を機に浅藻湾一帯に押し寄せ、久賀でいう「対州漁」を行った。8月に久賀を出港し、翌年4月に帰港するという、秋から冬、そして春にかけて鯛を釣る、厳しい出稼ぎ漁だった。
久賀漁民が浅藻に住み始めたのは明治9年からだが、その切っ掛けは前年の12月に風に煽られ転覆した豆酘の舟と漁師を助けたことだった。豆酘は浅藻の親村だったので、命の恩人たちへの礼として、久賀漁民の求めるまま浅藻(小浅藻)定住が認められた。その後、明治20年頃から山口県大島の沖家室の漁民たちが押し寄せ、得意のブリ漁で大いに稼ぎ、中浅藻に定住した。
住むことがタブー、たたりがあるかも知れないと知らされても、久賀の漁師たちは「たたりがあってもええ、それに生き神さまの天子様が日本をおさめる時代になったんじゃから、天道法師もわしらにわるさはすまい」(『忘れられた日本人』より梶田富五郎談)と受け止め、浅藻定住がスタートした。
その後、明治20年頃から山口県大島の沖家室の漁民たちが押し寄せ、得意のブリ漁で大いに稼ぎ、中浅藻に定住した。
浅藻開港記念碑(左:1950年に宮本常一が撮影 写真提供:宮本常一記念館、右:2021年撮影)
納屋が浅藻の繁栄を牽引
1891年(明治24年)には豆酘小学校の分校として浅藻小学校が開設された。浅藻がもっとも賑わったと言われているのが大正の頃で、戸数も200戸を数えた。中には明治維新で国有林となった龍良山系で働く林業関係者もいたが、多くは漁民だった。その浅藻繁栄の鍵を握ったのが、“納屋”。今で言う問屋だ。対馬が豊かな海をかかえていながら、漁業が発展しなかったのは、獲った魚を商品として流通させる努力をしなかったからに他ならない。
まず厳原の亀谷が小浅藻に、そして倉成が中浅藻に納屋を開いたが、瀬戸内の漁師達はそれで満足をしなかった。久賀の漁師たちは、問屋を連れてきた。それが五島新助。彼のおかげで浅藻は着実に発展していった。「浅藻開拓の父」と言われる所以だ。
その後、神崎灯台の水汲み、炭の仲買いから、運搬船経営者となった市丸馬太郎が機械船を導入し、生魚運搬、生魚問屋へと事業を拡大。浅藻は遠洋漁業の中継地ともなり、繁栄を極め、市丸は「浅藻を牛耳った」とまで言われるような存在になった。
浅藻神社の一角に、浅藻開拓の父・五島新助の顕彰碑が建っている。遠くに見えるのが龍良山
戦後の浅藻の主産業に、鰤飼付漁業
対馬の1988年(昭和63年)の魚種別水揚げ量の比率は、ブリ30.8%、イカ28.1%、カツオ6.3%、ウニ5.7%(『厳原町誌』より)と、ブリが1位だったが、そのほとんどは飼付漁で獲られたものだ。
飼付漁は、回遊してくるブリの群れが滞留しやすい海域に撒き餌をしてブリを飼い、一本釣りで釣り上げる漁法。鹿児島県では江戸時代後期に始まり、大正年間には鹿児島県内の漁場は廃れ、漁法は九州西岸を北へ伝わっていった。
対馬では1931年(昭和6年)に隣村の豆酘が「豆酘鰤飼付組合」を設立し、鹿児島県の技術を導入して事業をスタート。その後、西海岸の村々に普及していった。
浅藻の飼付漁業は、ブリ一本釣り漁師たちが「豆酘鰤飼付組合」に招かれて参加したのが始まりだった。1951年(昭和26年)には豆酘の組合から浅藻の漁師たちが独立し、「浅藻鰤飼付組合」を設立。浅藻地区として本格的に飼付漁業に乗り出した。漁場は浅藻沖3km、水深が90mある白砂の海域だった。最盛期には飼付漁だけで3億円を稼いだという。
公平にこだわった「浅藻鰤飼付組合」
「浅藻鰤飼付組合」の最大の特徴は、独自の共同分配方式。投資から、労働、分配に至るまで、共同と公平を原則として運営された。先祖たちの助け合いの精神が受け継がれ、高齢者には高齢者の仕事があり、組合員の誰もが生き生きと働いたという。
浅藻の飼付漁は、大漁に湧いた2001年(平成13年)まで続いた。そして、翌年にはまったく獲れなかったという。温暖化のせいか、漁場荒廃が原因か、ブリの回遊ルートが大きく変わったと考えられている。
飼付漁の漁場の寿命は短いと言われている。長く続いた例として55年があるが、避けられないことではあった。浅藻の場合50年も続いたことになる。
対馬アオサ、あるいは浅藻アオサ
かつてはブリが浅藻を代表する水産物だったが、2023年現在、浅藻の特産品と言えば、アオサだ。現在1軒だけが、60年ほど前から地道にアオサ(ヒトエグサと呼ばれる海藻の一種シワヒトエグサ)を生産、出荷している。
熊本県出身、2023年現在103歳の小森末秋氏が浅藻でアオサ養殖を始めたのは、彼が40代半ばの頃だった。
浅藻湾奥の遠浅な地形、龍良山の原始林から浅藻川が運んでくる豊富なミネラル分。人がいないので、汚れもなく、水がきれい。さまざまな好条件が揃っていた。
また、浅藻のアオサは他所のアオサに比べると成長が遅く、一定以上(10cm以上)は伸びないそうだ。海が痩せている=低栄養だからだという。小さい中にミネラル分たっぷりということだろうか、香り豊か、美味しさ格別のアオサとして市場でも高い評価を得ているという。
1月下旬から摘み取り作業が始まる。一般対象の注文受付期間は2月~4月。なくなり次第受け付け終了とのことだ。
<生産・販売> 小森海草(こもりかいそう)
電話番号:0920-57-0087
〒817-0153 長崎県対馬市厳原町浅藻8
天日乾燥中のアオサ
平成になってから、大幅に戸数減!
昭和になると漁場が大きく変わり、戸数も大正の200戸をピークに減っていった。1950年には150戸、1981年には118戸、1995年には113戸、2000年には105戸、2010年には83戸、2015年には71戸。平成になってから40戸以上も減っている。1999年(平成11年)には、100年以上続いた小学校も閉校になった。
2020年には60戸前半の戸数になっているのではないだろうか。この戸数減少の原因は、少子高齢化もあるが、山口の方に親戚も多く、漁業もパッとしない今、あえて言えば故郷に帰るという発想かも知れないし、または対馬に来た曾祖父、曾々祖父たちのように新しい時代に合った生き方を求めてのことかも知れない。
【地名の由来】浅藻の「藻」は「浦」の意で、浅い浦ということらしい。港を開く際に、大岩を沖に捨てたということからもうなずける。
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