大正時代初期の船着き場の道路工事で塚と推定される石積みが発見され、そこから人骨、鉄剣、陶質土器が出土した(尾崎遺跡)。陶質土器は朝鮮のもので、遺跡は5世紀のものらしい。
芦見浦の浦口南側にある剣島の頂上には石棺が破壊された跡があり、土器片などが発見された(剣島遺跡)。こちらは6世紀のもので、上対馬町南部ではここだけらしい。
地区北側にある能理刀神社は卜部の神社であり、ここで卜事が行われていたことは明白で、これらのことから、芦見は弥生時代以前からの村で、この辺り一帯の中心地であったと推定されている。
室町中期の朝鮮の書『海東諸国紀』(1471年)には戸数約100戸となっており、佐賀や佐志賀についで多く、主邑説を後押しする。