対馬全カタログ「村落」
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2021年2月1日更新
厳原町
阿 連
【あれ】
i
日本の亀卜発祥の地は
オヒデリとイカヅチの
里になった
吉凶占いの原点、亀卜(きぼく)
 亀の甲羅を焼いて、そのひびの方向や広がり方でさまざまな吉凶を占う「亀卜(きぼく)」は、古代中国、殷の時代には政治と深く結びついていた。その技術が対馬に到着したのがいつの頃かは明確ではないが、おそらく5世紀以前。そして、その上陸地はここ阿連の村であるらしい。ここでは主に農作物の豊凶や天候を予知する占術として発達した。
 この村のロケーションからして朝鮮伝来かと信じてしまいそうだが、少なくとも朝鮮半島には亀卜の歴史は見当たらないという。伝承では、 対馬卜部の祖とされる雷大臣が神功皇后に従って朝鮮に渡り、亀卜を習得して帰ったとされているが、あくまでも伝承のようだ。
 対馬卜部(うらべ)の本流とされる阿連の亀卜だが、早くに亀卜の伝統は失われたという。おそらく藩の公式行事としての亀卜が、豆酘と佐護で執り行われたからではないかと思われるが、それ以前に廃れていたのかも知れない。古き対馬を伝える亀卜は、現在では年に1度、旧暦の1月3日に豆酘のサンゾーロー祭でしかお目にかかれない。
※神奈川県三浦市の間口洞穴から5世紀のものと推定される亀卜遺物が出土しているところから、対馬上陸はそれを下ることはないだろう。
オヒデリとイカヅチ
 阿連にしかない行事に、“オヒデリサマの元山送り”というのがある。11月9日、大人も子供も、村中こぞって、村の奥の林の中にあるオヒデリサマの祠まで、1.5kmほどの道のりを、鉦を鳴らし太鼓を打ち、法螺貝を吹き鳴らしながら行進する。
 この行事は雷命神社の祭神である雷大臣(いかつおみ)が出雲へ赴いている間、村を守るために神社に入った日照神(俗称オヒデリサマ)が、帰った雷大臣と10日間過ごしたのちに神山に戻る儀式で、その時すでに日照神は懐妊しているという。
 日を照らせる神であるオヒデリと、雨を降らせる神、イカヅチ。この2神が仲良くすることにより天候のバランスがとれ、秋の豊作につながる。きっとそんな願いと感謝がこめられているのではないだろうか。
 ところで雷命神社の石鳥居だが、「八龍神社」と彫られている。中世から近世にかけて八龍大明神と称し、八龍殿と呼ばれていた。8匹の龍。まさしく雷のイメージだ。

雷命神社(上)とオヒデリサマ(下):オヒデリサマのご神体は本来は森の中の楠の巨木らしいが、今は楠はなく、小川のほとりの小さな祠に向かって拝む。
豊かな半農半漁の村
 村の奥の東南斜面に箱式石棺跡が4基発見され、須恵器の破片が見つかった。さらに昭和の初めにこの付近の山際から広形銅矛が2本発掘され、その埋納状況から弥生時代後期には祭祀が執り行われており、亀卜の伝来を受け入れる下地があったことがわかる。
 村の規模だが、1471年の朝鮮の書『海東諸国紀』では100余戸と記載されている。また史料により、阿連の漁船は朝鮮沿岸への出漁が許されており、それに対する税を払っていたことが分かっている。中世の頃は農業同様に漁業も盛んな村だったようだ。
 しかし、江戸時代に入ると、私貿易を恐れた藩の政策により漁業は禁止され、農業1本となってしまった。元禄時代に戸数67戸・人口284人となったが、明治までほぼその数字を維持できたのは、耕作に適した土地が阿連川沿いや付近の浦に多かったからだろう。
 明治になり漁業が許されると、戸数・人口ともに増え、1924年(大正13年)には84戸・585人になった。
海岸から300mほど離れると、水田地帯が広がる。
新観光スポットに「阿連の洞門」
 かつて舟による移動がメインだった頃も、天候やさまざまな事情で陸路を選ばなければならないこともあった。そんな時、阿連の人々は4km離れた隣村の小茂田(こもだ)まで、山を越えるのでなく海岸線を歩いた。
 ただ1カ所だけ険しいところがあり、子供や老人は難儀した。それを見かねた一人の石工がトンネルを掘り始めた。今風に言えば、ボランティアだ。その精神は弟子に受け継がれ、また阿連の人々も協力するようになり、1932~1933年(昭和7~8年)頃に完成したそうだ。
 その後、昭和30年頃に道路が整備されるまでの20数年間、阿連の人々の大切な道として利用された。現在は一部が崩壊し、トンネルが寸断されているが、「阿連の洞門」として、観光スポットとして注目されている。
海岸線を南に20分ほど歩くと洞門が見えてくる。(写真は小茂田側から撮影)
最澄、唐からの帰国時に寄る
 天台宗の祖-最澄は804年(延暦23年)に唐に留学したが、その翌年の帰国時に乗っていた船が阿連に着いたという記録があるそうだ。それを記念すべく「伝教大師入唐帰国着船之地」顕彰碑が、1973年(昭和48年)11月に立てられた。
 鎌倉時代に書かれたものだが、「叡山大師伝」によれば、最澄は6月5日に対馬を出て、順調に航海し長門国(山口)に到着したとある。御年37歳の航海。阿連からは、浅茅湾に入り、小船越の地峡をこえて、沖ノ島を経由し、長門国に到着。瀬戸内海を渡って今の神戸に上陸し、入京すると、すぐに天台宗の布教に奔走した。
 亀卜発祥の村は、伝統や風習を大事にし、愛村心にあふれ、そして伝教大師まで呼び寄せた。そう、この村には特別な何かがあるのかも知れない。
「伝教大師入唐帰国着船之地」顕彰碑
【地名の由来】御子神の生誕を意味する「誕れ(あれ)、生れ(あれ)」からか。また、古くは「阿江」といったらしく、「阿」は地名語としては「大きい」、「江」は「入江」であり、「大きい入江」からではないか等、数説ある。
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