対馬全カタログ「特産品」
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2022年1月28日更新
対馬真珠
【つしましんじゅ】
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かつての真珠の島が
養殖によって甦り、
今や対馬の主産業の一つに
対馬は、真珠三大産地のひとつ
 真珠といえば、真珠養殖の発祥地でもある三重県の志摩地方が有名だが、現在、真珠の主要産地といえば、愛媛県の宇和海、三重県の志摩、そして長崎県の対馬が、三大産地と言われている。生産量の県別全国シェア(2018年)は、愛媛県40%、長崎県34%、三重県21%で、3県で95%を占めている。
 長崎県内では、もちろん対馬がナンバー1。それは100年以上も培ってきた技術の高さはもちろんだが、品質に貢献しているのが、浅茅湾(あそうわん)のリアス式海岸、水温などの自然条件だ。
 実際、対馬は大昔から、いい真珠の採れる島だった。
浅茅湾の中でも特に波が穏やかで、真珠養殖が盛んな「濃部浅茅湾」
地名「玉調」は古代の真珠産地の証しか
 『万葉集』に登場する対馬の娘「玉槻」は、古代の村「玉調(たまつき・たまつげ)」に住む娘ではないか、という説がある。その玉槻の句のひとつが、
 竹敷の玉藻なびかし漕ぎ出なむ 
    君がみ舟をいつとか待たむ
 奈良時代の対馬の女子としては、かなりの教養の持ち主ということになるが、玉調居住の女子説では、彼女の言った言葉を誰かが和歌にしたのではないかと説明する。
 その真偽は別にしても、玉調の地名は真珠を調(みつぎ)としたところからと解することができる。平安中期に記された『延喜式』の雑式にも、真珠は対馬の特産品として取り上げられ、次のような記述がある。
 「凡玉臣家使, 不得到対馬島, 私買真珠 擾乱百姓」。平安中期の対馬は真珠を量産し、当時、京都の貴族たちは対馬に家来を派遣し、私的に真珠を買いあさり、人々を混乱させたという。
 平安時代は、着物文化の発展とともに装飾品は身につけられなくなり、真珠は装飾品としてより、交易品の代価として人気だった。
 また、朝鮮の史書『高麗史』には1087年に、対馬から元平等という者が真珠や水銀、宝刀、牛馬を献上してきたという記録があり、真珠が対馬で産し、貴重なものだったことがわかる。
中国で評価の高かった日本の真珠
 平安時代、真珠は貢物としてたいへん価値があり、真珠の三大市場として、滋賀大津、難波大津、博多大津があった。中でも博多には中国の商人が居住して、真珠などを買い入れていたという記録もある。
 鎌倉前期の説話集『宇治拾遺物語』にも真珠のことが書かれている。難波で服と交換して手に入れた真珠が、博多の箱崎で唐人に所望され、結局銭70貫で売れた(正確には70貫で質入れした質草を返してきた)という話が書かれている。
 これほど、日本と中国での真珠に対する価値観は違っており、大量の真珠が中国に流れたのではないだろうか。対馬の真珠もかなり安く買われたのではないかと想像できる。
 日本で装飾品として真珠が注目されるようになったのは明治時代からで、江戸時代はすりつぶして粉末にしたものが、解熱、鎮痛、鎮静、滋養強壮などの薬として珍重された。「武(もののふ)」の時代には、真珠の静かな美しさは振り向かれなかったのかも知れない。
江戸時代、真珠採取の権利争いと藩の対応
 養殖が始まるまで、真珠を得るには海に潜ってアコヤ貝を採取するしかないわけだが、江戸時代の対馬には潜りのプロがいた。曲(まがり)に定住した筑前鐘ヶ崎(かねがさき)の海士(あま)たちで、「曲海士」と呼ばれた。
 1722年(享保7年)に、その曲の海士と濃部(のぶ)の村人が真珠採取の件でもめた記録が残っている。その裁決として、1村につき1艘ずつ、1年間で2日以内という条件で、曲海士も取っていいことになった。
 しかし、その翌年、海士17人が3艘に分乗してやってきて、潜る直前に17人が1艘に乗り潜ったので、再度問題となり、村役人への届け出制へと条件が強化された。年2日が年3日に緩和されたものの、曲海士が自由に真珠を取ることはできなくなった。
江戸中期に発刊された『日本山海名産図会』には、真珠ではないが、伊勢のアワビ漁が掲載されている。真珠採取も同様の光景だっただろう
商いとしての真珠
 享保初年(1716年)に始まった対馬の農産物の不作は、断続的ではあったが半世紀にわたって続いた。島民は困窮を極めたと言われている。各浦々の真珠採取は、数少ない現金収入源として貴重であり、村の権利として保護された。
 1728年(享保13年)には、府中の町人が旅海士を雇って真珠を採取することを申請したが、藩への運上銀の他に、村々へ合力銀(協力金)を支払うことで許可された。その後、不漁による運上銀減免の申し立て等の記録がある。
 また、1813年(文化10年)以降は、藩が真珠の全てを買い上げ、採取や売買を管理するようになったが、その44年後の1857年(安政4年)にはそれが廃止された。理由は記録に残っていないが、真珠が獲れなくなったのか、儲けが少なくなったからか、真珠採取がほとんど行われなくなったからと推測されている。
対馬真珠の奇跡は、一人の女性から
 対馬で真珠が再び脚光を浴びるようになったのは、第二次大戦後、1950年(昭和25年)からだった。前年に漁業法が改正され、それを契機に真珠養殖にまつわるさまざまな課題が顕在化し、それらが検討され、問題を抱えながらも大きく動いていった。
 その真珠養殖の新時代を準備したのが、大正期に最初に対馬で真珠養殖の事業化に取り組んだ北村真珠だ。創業者である北村幸一郎は、1901年(明治34年)に三重県伊勢志摩の五ケ所湾で真珠の養殖を始めていたが、リアス式海岸ならではの穏やかな海面、 本土から100km以上離れ、人口が少なく、将来にわたって海が汚染されにくい対馬の海に着目した。
 しかし、その対馬着目のきっかけは、対馬出身の一人の女性だった。
対馬の真珠養殖は、大船越から始まった
 北村真珠は、御木本真珠から特許侵害で訴えられた裁判には勝ったものの、三重県外での養殖を余儀なくされ、新天地をさがしていた。そんな時に、従業員の女性に「私の故郷、対馬にもアコヤ貝がいる」と聞き、北村幸一郎はさっそく対馬を視察。志摩の英虞湾に似た浅茅湾に真珠養殖の可能性を確信した。
 そして1921年(大正10年)、北村真珠は、美津島町大船越に大船越養殖場を開設。対馬における真珠養殖の先駆けとなった。
 その3年後、パリで行われた「真珠裁判」において、養殖真珠が天然真珠と全く違いが無いと判決を受け、養殖真珠は正真正銘の宝石として認知された。これにより天然真珠の価格は暴落。天然真珠の世界的産地だったバーレーン、クウェートなどの中東諸国は、真珠の国から石油の国へと変貌していったそうだ。
北村真珠大船越養殖場(通勤には船を利用)
世界経済の大波小波を乗り越えて
 昭和30年代の真珠養殖は拡大の一途で、1956年(昭和31年)に北村真珠養殖が神戸の大月真珠と共同でスイスのチューリヒに支店を出すなど、海外への販売も積極的に行われ、日本の真珠養殖は世界の真珠をリードするに至った。
 1966年(昭和41年)には国内真珠生産量が150tに達し、真珠の質量単位である「もんめ=3.75g」が、商取引上の世界共通単位「momme」(表記は「mon」)となった。
 しかし、1967年(昭和42年)のアメリカ、イギリス、西ドイツの景気不振を原因とする世界経済の停滞が、真珠業界を直撃。さらに、全国的な真珠供給量過多や品質低下も相まって、その後約4年間、真珠業界は立ち直ることができなかった。これが最初の大波だった。
 その間、対馬の真珠事業者は事業規模を縮小したり、椎茸栽培を行ったり、ある者は土方をするなどして、生計を維持したそうだ。
 その後も、中国産真珠の進出やバブル崩壊、世界規模の経済不況と、さまざまな波が襲う度に真珠業界は大きく揺れ、対馬の真珠業者はその数を減らしながらもなんとか耐え凌いできた。
 2008年(平成20年)のリーマンショックを経て、2019年(令和元年)現在の経営体数は45。最盛期の約3分の1にまで減少した。
隣浦が養殖場という大山地区
地球温暖化、大量へい死との戦い
 波とは別に、大きな壁も出現した。地球温暖化だ。真珠養殖としては1993年頃(平成5年)からその影響を受けていた。  
 海水温が1℃高くなると、アコヤ貝は疲れて真珠を完成させる前に早死にするようになった。さらにそれに追い打ちを掛けるように、1996年(平成8年)にはアコヤ貝の赤変化(貝柱の赤変をともなう症状)が発生し、アコヤ貝の大量へい死が顕著になった。
 当初は、赤変化も高水温、地球温暖化の影響が疑われた。確かに海水温によって赤変化の出現は左右されたが、全国さまざまな海域で調査した結果、原因は水温だけではないことが判明した。
青年部、活躍す!
 これらの問題に対するために立ち上がったのが後継者たちだった。1998年(平成10年)、対馬真珠養殖漁業協同組合の中に青年部を開設し、関係機関と連携して疫学調査と感染実験を実施。赤変病が伝染性疾病である可能性を突き止めた。
 また、秋に仕入れた稚貝は、春仕入れの稚貝より赤変病かかりにくいことから、水温が低い方が発症を遅らせることができることに気づき、春の仕入れを止めることにしたため、赤変病の拡大を食い止めることができた。赤変病のリスクを減少させるために、通常より1年早く挿核する技術も開発した。
 なお、2021年(令和3年)現在、赤変病の原因となる病原体はまだ突き止められていないが、中国アコヤ貝の輸入後に広がったため、中国由来と考えられている。また、最近の研究で、病原体はスピロヘータという説も発表されている。
青年部、表彰さる!
 青年部はさらに、生存率が高いアコヤ貝や、真珠の色彩を良くするピース貝(核挿入時に、核と同時に入れる外套膜の切片を採集する貝)の開発にも取り組み、貝の生存率、真珠の品質は年々高まり、生産性は着実に向上したそうだ。
 青年部を結成して13年後、それまでの活動が実り、2011年(平成23年)、全国真珠養殖漁業協同組合連合会(全真連)の真珠品評会で、対馬真珠が全部門で最高位の農林水産大臣賞を受賞した。
 2012年(平成24年)には、それまでの一連の活動が認められ、青年部が農林水産祭(水産部門)で天皇杯を受賞するという、最高の栄誉を得ることになった。
 対馬真珠養殖漁業協同組合青年部などの努力や、国内景気回復や円安、中国等への輸出等の好条件が複合し、収穫額は平成24年から増加に転じ、あくまでも推定だが、平成21年の10億~15億円だったのが、平成25年には16億~24億円にまで回復したそうだ。
2019年、稚貝の大量死発生!原因不明!
 「アコヤ貝赤変病」を乗り越えた真珠業界だが、2019年(平成元年)には“アコヤ貝稚貝の大量死”が発生した。被害は全国の養殖場に及び、対馬ではすべての養殖業者が被害を受け、被害の多い業者は約8割、平均で約2割の稚貝が死んだ。貝の中身がなくなったり、真珠の形成に必要な外套膜が縮んだりした。
 その後、母貝、稚貝ともに毎年被害が出ており、 原因として海水温の高温化説、アコヤ貝の餌となる植物プランクトン減少説などが唱えられている
 原因をウイルスと推定する説もあるが、2021年(令和3年)現在、ウイルスの種類などは特定されておらず、あくまでも推定の域を出ていない。
 三重県の方では、高水温や、餌となる植物プランクトンが少ないという漁場環境悪化による衰弱と、さまざまな稚貝へのストレスが原因として、波の揺れや海のにごり、感染症等のストレス要因を稚貝から遠ざける対応策をとるように推奨している。
 また、三重県水産研究所は、高い水温に耐性のある貝を「選抜」し、品種開発に取りかかっているそうだ。
さまざまなチャレンジ、進行中
 北村真珠養殖は「対馬ブルー」と銘打って、これまで日の当たらなかった「いびつで青い真珠」に光を当て、新しい真珠アクセサリーを発表した。 テレビショッピングを利用し、その魅力を全国に向け発信している。
「対馬ブルー」廉価版の「海蛍(うみほたる)」のリング
 同じく北村真珠ではあこや真珠アクセサリーの千円ガチャを全国30カ所で展開。真珠を若い人にも気軽に身につけてもらえるよう、あえて千円ガチャという販売方法を選択。スタートは在庫としてあった真円真珠を使ったが、漸次(ぜんじ)ナチュラル真珠に切り替えていく。歪みはあるが輝きは遜色のないナチュラル真珠を積極的に使うことで、その普及をめざしている。
「あこや千円ガチャ」は、対馬では、厳原町国分の「観光情報館ふれあい処つしま」、上対馬町舟志の「小田商店」に設置されている
普段使いの真珠アクセサリーを提案、Tsushima Pearl
 2014年に対馬の女性たちが創設した対馬発のアクセサリーブランドが「Tsushima Pearl」。その団体名が「対馬パールプロジェクト」だ。“普段の生活で使いやすいものを”というコンセプトで、ナチュラル真珠を使ったカジュアルな真珠アクセサリーを展開している。
 作品は「観光情報館ふれあい処つしま」、手作り品オンラインショップhttps://minne.com/@tsushima6などで購入することができる。さらに、比田勝の直営店では作品を販売する傍ら、真珠アクセサリー作りの体験プログラムを実施。申し込みは、2日前までに直接連絡するか、じゃらんnetの「遊び・体験」ページから予約することができる。
Tsushima Pearl 直営店
Tsushima Pearl 直営店 店内
⇒ 真珠の生産工程は北村真珠養殖のホームページで詳しく説明されている。
https://www.kitamura-pearls.co.jp/pearlstory/process.html
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