対馬全カタログ「特産品」
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2021年5月9日更新
対馬しいたけ
【つしましいたけ】
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「森のアワビ」とも言われる
その贅沢な味わいは
対馬の自然の恵みの極みだ
「対馬しいたけ」の美味しさは、自然環境由来
 椎茸は英語で「shiitake mushroom」。椎茸は中国原産だが、日本語が世界共通語となるほど、日本の椎茸は、中でも木(原木)に菌を植えて栽培される原木椎茸は世界でも高く評価されている。
 その日本の中でも、安定して高評価を得ている生産地のひとつが、対馬だ。対馬の自然は、原木椎茸生産にとっては理想的だといわれる。
 まず、椎茸が育つための栄養源となる原木にはクヌギやアベマキが使われるが、それらの木々が育つ環境としての自然。これには対馬の冬の気候が功を奏し、木々は厳しい冬に耐えようと栄養成分を多く産出し、栄養分が豊富な原木を用意してくれるそうだ。
 さらに、椎茸が育つ環境としての自然だが、対馬の気候は雪が少なくて寒暖の差が激しい。それによって、身の締まった椎茸になるそうだ。
 椎茸には「生しいたけ」と乾燥させた「乾(ほし)しいたけ」があるが、対馬産の椎茸で一般に流通するのは「乾しいたけ」。その中でも「どんこ」 とよばれる肉厚のものは、その食感と高価値から「森のアワビ」と形容され、厚さと香り、姿もよいことから全国の品評会でも高い評価を得ている。
椎茸は、江戸時代からの対馬特産品
 対馬の椎茸生産は、江戸時代には行われており、江戸時代初期に登場した、ほだ木に切れ込みを入れ、天然の胞子が付着するのを待つ「ナタ目法」は伝わっていたはずだ。元禄の頃の全国ガイドブックともいえる『国花万葉記』に対馬名物として記載されているように、対馬の椎茸は広く知られており、幕府への献上品の定番でもあった。
 明治4年の生産高は12,000斤(7.2トン)で単価20匁、総額240貫となっている。水産物のふのりや干し昆布とほぼ同等で、対馬の特産品といってもいいレベルだ。
『国花万葉記』14巻下より
原木椎茸栽培は江戸時代から
 日本での椎茸栽培の始まりは、江戸時代初期、1600年代の中頃に、大分県で始まったとする説、静岡県(伊豆)で始まったとする説の、2説がある。ほだ木に切れ込みを入れ天然の胞子が付着するのを待つ「ナタ目法」と言う半栽培の方法で、1697年(元禄16年)の「農業全書」(宮崎安貞・貝原楽軒編)でも紹介されている。
 江戸時代末期、天保年間(1831年~1845年)に豊後佐伯藩の原田利三郎が、大きな椎茸が採れるクヌギにより多く椎茸を発生させる方法として、自然に菌が付着するのを待つのでなく、積極的に種菌を植えつける方法を開発し、大分県内で普及した。
 明治以降は、培養技術面でさまざまな技術革新があり、1943年(昭和18年)、「くさび型木片にシイタケ菌を純粋培養した種駒による栽培方法」、いわゆる駒打ちによる栽培方法が森喜作によって確立され、戦争が終わると全国に普及した。
対馬における近代椎茸栽培は明治後半から
 対馬では、1897年(明治30年)ごろ、大分県津久見出身の西郷武十を「椎茸巡回教師」として招き、当時最新の栽培技術の普及活動を11年間かけて行った。これが対馬で現在行われている原木しいたけ栽培の原点だ。
 また、大正の頃から国有林開拓の目的で移住してきた大分県の林業従事者たちが、優れた椎茸栽培技術を伝えたとも言われており、さらに改良された栽培方法が伝わったのかも知れない。
 1948年(昭和23年)に、対馬農業経営福利事業として椎茸栽培を開始。林業従事者だけでなく農家でも原木しいたけ栽培が行われるようになった。
 戦後、対馬では対馬農協の他に対馬椎茸農協があり、さらに森林組合がありと、流通が複雑だったそうだが、1972年(昭和47年)に農協と椎茸農協が合併し、森林組合は生産指導、原木対策に特化することに。本来は林産物である椎茸が農家の主要産物という対馬の特殊事情を生むことになった。
原木椎茸栽培はきつい!
 さまざまな技術革新のおかげで収穫量は増えたとは言え、原木椎茸栽培は手が掛かるという。「椎茸は30回投ぐる(殴るではない)」という表現があるそうだ。1本の原木に30回触らなければならないという意味だそうだが、それだけ工程が多いという。駒打ちさえすれば収穫まで放っておけばいいという、一般の椎茸栽培イメージとは大違いなのだ。
 梅雨期や秋の長雨の頃は、「天地返し」という作業を行う。立てかけている原木の1本1本の上下・裏表を入れ替える作業だが、1万本あれば1万回、それを行う。とにかく本数が多いので、作業量が膨大になる。ここでは用語解説がたいへんなので省略するが、毎日なにかしらの作業があるそうだ。
天地返し作業
 さらに安価な中国産の普及によって、仕事が大変なのに単価が下がり、実入りが少ないという。若い人が好んで椎茸栽培に就きたいとは思わないのは当然かも知れない。
 だから、高齢者が体がキツくなったので椎茸栽培をやめると、それっきり。原木しいたけ栽培は縮小していかざるを得ない。乾しいたけは1981年(昭和56年)の488トンをピークに減少の一途をたどっている。
 平成26年のデータでは、生産者数314人、乾しいたけ生産量40トン。最盛期の12分の1だ。
対馬の乾しいたけ生産量の推移と県内生産割合
「対馬しいたけ復活プラン」で新事業が
 2006年(平成18年)から長崎県の「対馬しいたけ復活プラン総合対策支援事業」がスタートし、復活のために新たな担い手が創出された。
 2007年(平成19年)に建設資材会社の一部門として設立されたのが、株式会社翔榮の椎茸事業部。現在は生産量80トン(対馬全生産量の2/3)、原木数30数万本を栽培する、対馬最大の椎茸栽培会社にまで成長した。
 設立目的に原木椎茸栽培の維持・復活のほかに対馬市の雇用拡大等もあり、市のバックアップもあったそうだ。2016年(平成28年)には100年に1度と言われる大雨で原木が流されるなど、大損害を被った。投資の採算がとれるようになるのは、これからからだという(2021年)。
新しい「対馬原木しいたけ」生産システムの未来
 原木栽培というと、森の中の薄暗いところに原木を逆V字形に立てかけて、というイメージがあるが、翔榮の原木栽培はハウスだった。しかもただのハウスではない。屋根が遮光メッシュで、風が通り、雨が降れば原木は濡れる。ひと言で言えば、自然の森林の中を再現したハウス、となる。
 また、同社ではハウス栽培と同時に自然林のなかでの従来型の露地栽培も行っている。2つの栽培方法を同時に行うことによって、風味や食感、味の比較なども行えるが、すべての点において差はないとのことだ。
 さら、自然にやさしい循環型生産システムとして、使い終わった原木は砕いて堆肥にする破棄原木処理施設も容易。木は土に返し、それが農作物を育てる。まさにSDGs(エス・ディー・ジー・ズ)に即したこれからの事業形態といえるだろう。
 高齢化による椎茸生産者の減少に対して、若い人が取り組めるように機械化できるところは機械化し、販路も独自に開拓しながら、椎茸事業を持続可能な事業に育て上げること。ビジネスモデルとして、この成功には「対馬しいたけ」の未来がかかっているとも言えそうだ。
メッシュシートを張り巡らせたハウス群
ハウス内部:屋根は黒のメッシュで、木漏れ日のような柔らかい日が当たり風が通る。中屋根開閉式で雨天時の作業も快適
対馬の原木しいたけはネット経由で
 高い評価を得ている対馬の原木しいたけを、島外の人が手に入れるには、最近ではネットの通信販売がもっとも手軽だ。
 「対馬しいたけ」で検索すれば、さまざまなネット通販サイトや、ふるさと納税関連サイトなどが表示される。
 「対馬原木しいたけ」で検索すると、上で紹介している(株)翔榮のグループ販売会社である「(株)対馬原木しいたけ」がトップで表示され、そちらのサイトから直接注文できる。
〈原木しいたけの基礎知識〉
 原木しいたけを購入する際の基礎知識として、ランク用語を理解しておくと、どういう椎茸を買えばよいか、判断がつきやすい。

どんこ・・・ 気温が低い時期に長時間かけて成長したもので、傘の肉が厚く、全体が丸い。コリコリ食感が楽しめ「森のアワビ」という表現が理解できる。多くは贈答に用いられる。どんこの中でも、大きさや色、模様など、見栄えでランク分けされ、上から「天白どんこ」「茶花どんこ」「どんこ」と分けら、「天白」と「茶花」をまとめ「花どんこ」と表現されることもある。小さいサイズのものは「小粒どんこ」と表示されることもある。

香信(こうしん)・・・傘が開いた椎茸だが、どんこと同じ環境で育ったものなので、味の方は確か。普段の料理に最適だ。

スライス・・・ 生しいたけの時にスライスして乾燥させたもので、水に浸すとすぐ戻り、普段の料理に便利だ。
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