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2023年1月10日
清酒「白嶽」
【せいしゅ・しらたけ】
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対馬の酒といえば「白嶽」。
銘水の伏流水で仕込んだ酒は
全国新酒鑑評会で金賞!
2018年、2021年、2022年に金賞を受賞!
 対馬唯一の造り酒屋「河内酒造」。その代表的なブランドは、対馬の霊峰から名付けられた「白嶽(しらたけ)」。2004年(平成16年)に全国新酒鑑評会金賞、福岡国税局鑑評会吟醸酒部門3回連続金賞という栄誉に輝き、その後、全国新酒鑑評会では2018年(平成30年)に「純米大吟醸」が、2021年(令和3年)、2022年(令和4年)には「大吟醸」が金賞を受賞。酒造技術の力量の確かさを証明してみせた。
 軟水仕込みならではの、甘口で飲み飽きない味は昔から島民に愛され、そのほとんどは島内で消費されている。
2021年、2022年の全国新酒鑑評会で「白嶽 大吟醸」が金賞を連続受賞    写真提供:河内酒造
100年以上前に、広島から対馬へ
 河内酒造は、広島出身でハワイの製糖業で成功したといわれる実業家・河内辰次が1917年(大正6年)に対馬の酒屋の権利を買い、さらに現在の社長伊藤浩一郎氏の祖父伊藤松太郎ほか3名が加わり、計5名による共同経営で1919年(大正8年)に創業された。全員、広島出身者だった。
 どうして河内辰治が“対馬の酒造”に目を付けたのか、確かなことはわからないが、ハワイに行く前に麻製の漁網を対馬に運び、干魚を積んで広島に帰るという商いをしており、当時から対馬での商売に関心を持っていたのではないだろうか。
銘水が、鶏知選択の理由か?
 1918年(大正7年)発行の『鶏知村郷土誌』には、当時鶏知村に清酒及び焼酎醸造所があったことが記されている。河内辰次が買収した醸造所であろうと想像されるが、そもそも江戸時代、商いは府中(厳原)でのみ許された。酒造りもそうだった。それがどうして鶏知にあったのか。
 河内辰次の買収以前に厳原から鶏知に移った酒屋があったのか、あるいは厳原の酒屋を買収してから鶏知に拠点を移したのかは不明だが、河内辰次が鶏知を選んだ理由は水にあると言われている。
 河内酒造の地下を流れる水は、水源の森百選に選ばれた「鶏鳴の森」の伏流水。軟水で、やわらかく美味しい水として知られている。
 その他に、当時鶏知が陸軍の町として賑わっていたことも、鶏知選択の理由の一つだったのかも知れない。軍人が酒を好むのは古今東西不変。酒の消費量も多い。実際に、戦前の最盛期には島内で8割近くのシェアを誇り、戦後はついに1社寡占状態になった。
河内酒造10周年記念写真:前列左から2人目が河内辰次、後列左から5人目が伊藤松太郎(昭和5年6月撮影)  写真提供:河内酒造
広島ルートを活用して品質向上
 伊藤松太郎が対馬で河内酒造の経営に参加したのは25歳の頃だった。当初は監査役として年に1回の来島だったが、1926年(大正15年)には信用組合を退社し、1928年(昭和3年)から河内酒造の経営に本格的に参加したそうだ。
 1933年(昭和8年)、代表社員となった松太郎は、広島出身の強みを生かし、酒造米を広島から調達したり、杜氏を広島の醸造会社から紹介してもらったりと、さらなる品質向上に努めた。それが島内シェア8割につながったのかも知れない。
 因みに、河内酒造の杜氏は広島出身ではなく、長年にわたり長崎県の生月杜氏(いきつきとうじ)や小値賀杜氏(おぢかとうじ)が務めてきたという。
かつては「桶」だったが、現在は「醸造タンク」
4メートルはあろうかという昔ながらの酒造道具「櫂棒(かいぼう)」は今も現役
今では日本酒だけでも、10種類
 かつては1種類だけだった「白嶽」も、嗜好の多様化に応えるべく種類を増やした。アルコール度数19度でロックでもおいしい「白嶽・原酒」福岡県産山田錦100%使用精米歩合38%の「白嶽・大吟醸」。上品な甘さの期間限定の活性清酒「白嶽・にごり酒」。昔ながらの製造方法で造った懐かしい味の日本酒「白嶽・上撰」。そして、吟醸酒に用いられることの多い9号系酵母を使った、上品な甘さの飲み飽きしない本醸造酒「白嶽・特撰」。コストパフォーマンスに優れた「白嶽・佳撰」。さらに、吟醸古酒で造った梅酒「白嶽・梅酒」もある。
 平成28年に福岡国税局酒類鑑評会・純米酒の部で金賞を受賞した「 白嶽・純米酒つしま」は、 山田錦特有の上品な味わいが口の中で広がり、あと口もさわやかな逸品。アルコール度数17度の「白嶽・純米酒つしま原酒」。 熱処理を行わず、冷たくいただく「白嶽・生酒」と、幅広く日本酒の愉しみをカバーしている。
 さらに焼酎も9種あり、幅広い品揃えで日本酒の楽しみを提供している。
河内酒造の主要商品    写真提供:河内酒造
別純米酒「兵介」は、鳥栖市とのコラボ商品
 「兵介」は、江戸時代に対馬藩の飛地である田代領(現在の佐賀県鳥栖市基山)で善政を敷いた副代官「賀島兵介」より命名した、河内酒造としては珍しいブランド名だ。
 鳥栖在住の方から「鳥栖の米を使って対馬でお酒を作れないか」というプロジェクト提案を受け、河内酒造がそれに応えたもので、鳥栖で新たに作付けされたこのプロジェクト専用の酒米(山田錦)を使って醸造。販売は河内酒造だけでなく鳥栖の酒屋でも行うという、対馬と鳥栖の縁を双方向に酒がとりもとうという徹底ぶり。
 鳥栖の米と対馬の水で造った純米酒、「兵介」。河内酒造の製品の中では比較的あっさりとした味わいだ。
瓶詰め工程
かつて酒屋は製造業の花形
 日本で本格的な酒造りが始まったのは、安土桃山時代と言われている。当時20人以上の人員を必要とする製造業は他になく、その後も長きにわたって酒造業は製造業の花形、製造業の雄であった。
 江戸時代、幕府は酒造りで使用する米の量「酒造高」の上限を各藩ごとに定め、それを基準に酒をつくる権利「酒造株」を設定し、その証明として鑑札を発行した。対馬では府中(現在の厳原市街)でのみ酒の販売は許され、当初酒屋は30軒あったが、元禄になると幕府から酒造高の見直しによって20軒に減らされた。
 しかし、減らされることで酒造業が縮小したわけではない。家内制手工業中心の時代、醸造業は大きな商売だった。1772年(安永元年)の記録では、対馬で最も裕福な商家は、年に銀40~50貫を取り扱う酒屋の「梅屋」だったそうだ。
 また、1861年(文久元年)の幕府巡検使の報告には、「酒は、自国製(対馬製)も堺製もある。以前は酒造家が20軒もあったが次第に減少した。町人高島忠右衛門は8、900石、国府丈右衛門、銭屋五兵衛は4、500石の筑前米で酒造し、国中に用立てている。」(『対馬の庶民史』城田吉六著より)とある。1位は「梅屋」ではなくなっていた。
明治時代、対馬の酒造業界は・・・
 対馬藩の幕末期の記録では酒屋は13軒。商家148軒の中の1割弱だ。明治初期もおそらく10軒くらいの酒屋が商売を行っていたのではないだろうか。自家で醸造する酒を売るだけの店舗もあれば、堺から仕入れた灘の酒も売る店もあっただろう。江戸時代後半から流行りだした焼酎も造り、売っていたに違いない。
 おそらく河内酒造創業時、厳原市街に何軒かの酒屋があり、中には河内酒造同様、九州などから杜氏集団を雇って本格的な酒造りをさせていた造り酒屋もあったはずだ。しかし、その数は減り、戦後いつの頃からか河内酒造1社になっていた。
 その勝利の原因は、やはり第一は“味”ではないだろうか。鶏知の地下水「鶏鳴水源の伏流水」を使い、優秀な杜氏を雇い、美味しい酒を追求してきたことの結果ではないだろうか。
 現在、河内酒造は杜氏を使っていない。歴代の杜氏から受け継いだ技術と経験をもとに対馬在住の地元職人だけで酒をつくっている。試行錯誤しながらの酒造りだが、2018年以降の受賞歴が示すように、確実に評価は高まってきている。 
温度調整用のヒーターが巻かれているタンク
<製造・販売>
河内酒造合名会社
〒817-0322対馬市美津島町鶏知甲490-1
TEL:0920-54-2010
FAX:0920-54-3705
http://kawachi-shop.jp
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