対馬全カタログ「社寺」
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2022年5月30日更新
八幡宮神社
【はちまんぐうじんじゃ】
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厳原市街の中央に鎮座。
八幡様は今も、これからも
守護神として島を守る
八幡様は厳原のワンダーランド
 厳原だけでなく、対馬で「八幡様」と言ったら、厳原の八幡宮神社だ。厳原市街の中心にあり、かつてその広い敷地は市民の憩いの場、公園のような存在でもあり、愛着をもって「お宮」と呼ばれ市民に愛されてきた。
 昭和30年代は境内でサーカスもあり、敷地の隅の方には象が繋がれ、檻にはライオンが入っていた。子供も含め対馬の人々が象やライオンを見たのはそれが初めてだったのではないだろうか。昭和20年代にはレビューもあったし、ガマの油売りの実演販売があったのもこの境内だった。
 何よりも八幡様は子供たちの遊びの場だった。ここに来れば遊び相手がおり、広い境内を走り回り、溝を跳び越え、子供の時間を存分に楽しむことができた。
 なお、正式な社名は「八幡宮神社」だが、単に「厳原八幡宮」とも称される。室町時代後期からは「府内八幡宮」、「府中八幡宮」とも呼ばれたそうだ。
1962年(昭和37年)の八幡宮前   写真提供:宮本常一記念館
盛大な八幡様の夏祭り
 旧暦の8月13日~15日の夏祭り(例大祭)には境内に屋台が並び、子供たちはもらった小遣いで自分の好きなものを買い、友人たちと一日を過ごす。二人連れも多く、これは50年前も今もあまり変わらないようだ。ただし、境内はかなり狭くなった。2度の道路拡張により国道側が4m近くセットバックを余儀なくされたからだ。
 小学生の奉納相撲もあり、夕方からは国選定の無形民俗文化財「命婦の舞」や、地元の女子中学生による「浦安の舞」が奉納される。1、2年生は歌、3年生になってやっと舞うことができ、“浦安の巫女”を務めたことは彼女たちにとって誇らしい一生の思い出となる。
 その他に、神輿が厳原港をめざして練り歩き、郷土の発展や大勢の氏子衆の繁栄を祈願する放生会(ほじょうえ)が行われる。
随神門と二体の随神像(2022年撮影):随神像は、南北朝時代に九州で活躍した仏像作りの一派・西国湛派(さいごくたんぱ)に連なる仏師の作と言われている
由緒は神功皇后の時代にさかのぼるが・・・
 社伝には、神功皇后が三韓征伐からの帰途、対馬の清水山に行啓し、この山は神霊が宿る山であるとして山頂に磐境(いわさか)を設け、神鏡と幣帛(へいはく)を置いて天神地祇(てんじんちぎ)を祀ったという。677年(天武天皇6年)、天武天皇の命により清水山の麓に社殿を造営して八幡神を祀ったのに始まる、とある。
 しかし、それほどの神社であれば、905年(延喜5年)に成立した『延喜式神名帳』に掲載されたはずであり(対馬では29社も載っている)、 そこに「八幡」の字がないということは、905年時点では八幡神を祀った神社は対馬にはなかったのではないか、と考えるのが自然だ。(『延喜式神名帳』に載っている「八幡」の神社は、全国で「八幡大菩薩宇佐宮」と「八幡大菩薩筥崎宮」のみ)
 対馬関連の古文書で「八幡大菩薩」が初めて登場するのは、1111年(天永2年)頃に著された『対馬国貢銀記』の中であり、記録としては現存最古の八幡宮文書が書かれた1160年(永暦元年)となる。
 905年から少なくとも1111年の間、おおよそ1000年前に、対馬に八幡宮が造られたのではないかと推察されている。最初は木坂に置かれ、その後厳原に勧請されたと考えられており、時期としては平安時代に八幡信仰が盛んになったこととも符合するという。
かつては下島の和多都美神社か?
 905年(延喜5年)の『延喜式神名帳』に名があっても、現在それがここ、と同定できない神社が多い。中でも上島の「和多都美御子神社」と下島の「和多都美神社」はどちらも「大社」として、つまり大きな神社として記載されているが、一つは歴史の中に消滅してしまい、一つは一度消えたものの18世紀後半になって突然再登場となった。(上島の「和多都美御子神社」の再登場については、「海神神社」のページで触れる予定)
 その謎をさまざまな史料をもとに追究し、それなりの答えを出したのが、郷土史家の永留久恵氏だ。彼は上島の「和多都美御子神社」は木坂の「八幡宮神社(現 海神神社)」に、下島の「和多都美神社」は厳原の「八幡宮神社」に置き変えられたと考えた。そして、その説が現在最も説得力のある説として流布している。
 両社ともに「八幡宮」であり続けたのは1871年(明治4年)まで。木坂の八幡宮神社はかつては「和多都美神社」であろうという当時の有力説に従って「海神神社(「海神」は「わたつみ」とも読む)」に。厳原の八幡宮神社は一度「和多都美神社」と名を変えたが、1890年(明治23年)に「八幡宮神社」に戻り、現在に至っている。
1939年(昭和14年)八幡宮の境内(絵葉書)と、2022年の境内:車社会に対応し、境内の一部が道路拡張で削られ、広場は舗装されて駐車場になり、木々は成長したが、鳥居の向こうは80年間ほとんど変わっていない
刀伊の入寇が対馬の八幡宮誕生の誘因か?
 どうして「和多都美神社」が「八幡宮神社」になったのか。その答えのヒントが前述の『対馬国貢銀記』にある。この書は、平安時代後期の学者であり歌人でもある大江匡房(おおえまさふさ)によって1111年頃に記された、対馬から朝廷に献上される銀の採掘や製錬、輸送についての記録だが、八幡宮に関して「彼国の窺窬(キユ)心なきは(異国に隙を窺わせないのは)、八幡大菩薩の神威なり」と書かれている。
 この一文から、異国から国を護ることを目的に、対馬に八幡宮が造営されたのではないかと、と推測できる。そして、その異国とは、1019年(寛仁3年)に対馬・壱岐・北九州に攻め入った刀伊(女真族)ではないかというのが、永留久恵氏の見解だ。
 強い危機意識があったからこそ、大社であった和多都美神社を廃してまで、国の守護神として最も相応しいとされた八幡神を祀る八幡宮を造営する必要があったということだろう。
守護神として絶大な信頼を得てきた八幡大菩薩
 大分県宇佐地方の新羅系渡来集団辛嶋氏が祀っていた神がヤハタ神となり、奈良時代初期には朝廷の信仰も得るようになった。720年の南九州の隼人征伐(はやとせいばつ)からではないかと考えられている。奈良の大仏も宇佐神宮の神託を得ることによって貴族たちの反対を抑え、建立できたと言われている。
 祭神は応神天皇のご神霊・誉田別尊(ほんだわけのみこと)で、571年に初めて宇佐の地にご神霊が現れたと言い伝えられており、それから約150年後の725年(神亀2年:平城京遷都の15年後)に宇佐神宮(現在の一之殿)が創建された。
 さらに祭神として、比売大神(ひめのおおかみ)=宇佐地方の地主神(豪族宇佐氏の氏神)、大帯姫(おおたらしひめ)=神功皇后(応神天皇の生母)が加えられ、現在に至っている。
 奈良時代末期には神仏習合により、八幡神に菩提号を奉献し、八幡神と菩薩の力を持つ、衆生を救済し国を護る「八幡大菩薩」として強力なパワーを期待され、平安時代になると京都を中心に全国に広がった。
 武門の守護神として、安産の神様として、その他に学問、芸術、財運、交通安全、疫病退散など、幅広いご利益のある神様として知られている。
神功皇后と三韓征伐と対馬
 応神天皇の母・神功皇后は『古事記』『日本書紀』に登場し、現在では実在説と非実在説が並存している。江戸時代までは神功皇后=卑弥呼と考えられていたという。明治から戦前までは学校教育の場で実在の人物として教えられていたそうだ。
 神功皇后が朝鮮半島に遠征したといわれる“三韓征伐”で、対馬も主要な舞台の一つだったのでなおさらだろう、対馬には神功皇后にまつわる伝説が数多く残っている。1964年(昭和39年)発行の『新対馬島誌』でも実在路線で書かれており、そこでは八幡宮の起源は対馬とされている。
 神功皇后は実在していたかも知れない。確かに“三韓征伐”に似た戦いは4世紀後半から5世紀前半にかけて何度かあり、攻められた新羅は倭(日本)に人質を送ったこともある。だが神功皇后が“三韓征伐”をしたという記述は『古事記』(712年成立)と『日本書紀』(720年成立)以外ではないそうだ。新羅側にも記録はあるが、神功皇后らしき勇猛な女性が攻めてきたことを匂わす記述はない。
新羅への敵対心が八幡信仰拡大の要因か
 京都では王城鎮護・国家安寧のために、860年(貞観2年)、宇佐宮からの勧請により、石清水寺の境内に石清水八幡宮が造営された。『延喜式神名帳』成立より45年も前に存在していたのに掲載されていないのは、当時は神仏習合により仏を祀る寺であると認識されていた神社、僧侶が管理していた神社だからだそうだ。その頃の名称は「石清水八幡宮寺」だった。
 その後、八幡信仰は急速に広がっていくことになるが、その初期の目的は“(異国からの)護国”と“乱の平定”だった。そして、その異国の筆頭が新羅だったと考えられている。
 663年(天智2年)の唐と新羅の連合軍による白村江の戦いでの大敗以来、新羅との関係は新羅の国内事情、混乱によって大きく揺れ動いた。さらにかつては属国として対応していた新羅に対して自らの優位性を維持することは、国としての優先政策だったに違いない。
 そんな時代に作られたのが『古事記』や『日本書紀』であり、朝廷の信頼を得たのが宇佐八幡だった。後に融合することになる神功皇后伝説と八幡神は、ほぼ同時期に歴史に登場した。そして、その共通項は「新羅」だった。
異国の襲来と内乱が八幡宮増設の引き金に
 平安時代になっても新羅との緊張関係は続き、新羅の賊船が対馬、壱岐、五島、北九州などを襲う事件も多発。869年(貞観11年)に新羅賊船が博多を襲った「貞観の入寇」の際には、石清水八幡宮寺の八幡神に護国祈願が行われている。これを境に石清水八幡宮が有力神社に加えられ、八幡信仰伝播のきっかけとなったようだ。
 また、この頃に八幡神と応神天皇・神功皇后が同体とみなされるようになったと考えられている。さらに1019年(寛仁3年)には「刀伊の入寇」という大事件もあり、護国祈願のため、さらに多発してきた騒乱を封じるために各地に八幡宮が造営され、八幡信仰が全国に広がっていった。現在、八幡系神社の総数は7,817社(2015年宗教年鑑)。神社では最も多いが、さらに小さな神社も含めると4万以上とも言われている。
 以上のような時代背景があり、厳原に八幡宮神社が誕生することになったようだ。対馬の八幡宮2社の造営がいつ行われたかの確かな史料はないが、その目的と地政学的な位置を考慮し、早い時期に実施されたと考えられている。
歴代藩主の篤信を得て発展
 対馬では八幡宮神社は宗氏の氏神として歴代藩主に庇護された。とりわけ2代藩主宗義成は、秀吉の朝鮮の役後の国交回復時に先代藩主が行った“国書偽造”を、家老の柳川調興が幕府に訴えた“柳川一件”というお家存亡の危機に遭遇した。八幡大菩薩への祈願も相当なものだったのではないだろうか。
 3代将軍徳川家光の下した“宗家お咎めなし”という裁断を得て、お家安泰、その直後の嫡男誕生など、万事願い通りにいったことを感謝し、八幡宮神社に社殿の新造、『高蒔絵三六歌仙額』の製作・奉納を行った。
 宝物庫には、その『高蒔絵三六歌仙額』をはじめ、蒔絵絵馬一対、宗義真の太刀、銅鏡などが納められている。
境内にはさらに三つの社
 八幡宮神社の境内には、平(ひらの)神社、宇努刀(うのと)神社、天神神社/今宮若宮神社、それぞれの社が建てられている。
 平神社は『延喜式神名帳』に名を連ねる式内社で、祭神は天穂日命、日本武尊、仁徳天皇、菟道皇子となっているが、確かなことは分かっていないらしい。
 宇努刀神社は由緒ある式内社であり、由緒書きには「神功皇后三韓征伐のおり、対馬の北端豊村に着船し 島大国魂神社を拝し、その後 佐賀村に、島大国魂神社の分霊を、皇后自ら祀った社。延徳三年(1491年)六月十四日、佐賀村より八幡宮境内に遷座された」とある。祭神は由緒から須佐男命と比定されている。
 天神神社/今宮若宮神社は、菅原道真を祀る天神社に、キリシタンだったために初代藩主宗義智に離縁された小西マリアと、その子を祀る今宮若宮神社が合祀された神社。「小西マリア神社」としてして知られている。
宇努刀神社
天神神社/今宮若宮神社:階段右の案内板には天神神社、左の案内板には今宮若宮神社の由緒が書かれている
2021年にスタートした“茅の輪くぐり”神事
 2020年に1月に感染者が増え始め、世界的なパンデミックとなった新型コロナウイルス感染症(COVID-19)。なかなか終息する気配のないコロナ禍を憂い、八幡宮神社では2021年に疫病退散の神事である“茅(ち)の輪くぐり”を執り行った。
 6月30日の夏越の大祓(なごしのおおはらえ)の際に、参拝者に直径1.7mの茅の輪をくぐってもらうことで、心身を清め、無病息災、家内安全、厄除けを祈願する。本来は小さな茅の輪を腰につけたり、玄関に飾ったりして、疫病などの災いから自分や家族を護るというものだったが、神事として茅の輪をくぐるというスタイルに発展したと言われている。
 厳原八幡宮では、境内に祀られている宇努刀神社の祭神・須佐之男命が、茅の輪の起源※とされる神であるところから、対馬の人々をコロナ禍から護るための神事として創始された。コロナ禍が生んだともいえる対馬の新たな神事。継続され恒例行事となっていきそうだ。

※須佐之男命は旅の途中、みすぼらしい姿に身を隠し、ある兄弟に宿を請うたところ、裕福な弟は断り、貧乏な兄はそれなりに手厚くもてなしてくれた。その後、須佐之男命は再び兄のところに立ち寄り、茅の輪を授け、「これを腰につけていると、あなたの一族、子孫は疫病にかかることはない」と伝えたという
社殿前の参拝路に設けられた“茅の輪”  写真提供:対馬新聞社
八幡宮神社
祭神:応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、姫大神、武内宿禰
鎮座地:〒817-0013 対馬市厳原町中村645-1
連絡先:0920-52-0073
<八幡神について>
新羅系渡来集団が祀る神の力
 『豊前国風土記』に「昔者、新羅の国の神、自ら渡り到来りてこの川原に住みき、すなはち名を香春の神といひき」とあり、これが八幡神の前身といえる神で、現在の福岡県田川郡香春(かはる)町に降臨したといわれている。時期は5世紀前半と推察でき、既にこの時には仏教や道教も融合した神で、この新羅系渡来集団の神「香春の神」は優れた力(呪力=祈りの力)を誇っていたと考えられている。
 その評判が都に届き、雄略天皇が病いに倒れた時(5世紀末?)に「豊国の奇巫」が呼ばれ、さらに『日本書紀』には、587年に用明天皇の病いに蘇我馬子が「豊国法師」(※1)を呼んだとに記されている。
 このように八幡神登場以前から、新羅系渡来集団(秦氏系といわれている)の神の力は朝廷から注目されていた。当時の政治では呪力の重要度は高く、この神の力を自分の味方に取り込むことが、政権運営にとって大きな力を手にすることにつながった。
 そのわかりやすい事例が、時代は少し下るが、769年に起こった道鏡と和気清麻呂の「宇佐八幡宮神託事件」だ。宇佐八幡宮の神託を利用して天皇になろうとした道鏡と、同じように宇佐八幡宮の神託を得てそれを覆した清麻呂。真実がどうであったかは諸説あるが、いずれにしても宇佐八幡宮の神託が天皇まで変える力を持っていたことを認識させてくれる。

※1「豊国法師」は、英彦山修験道の法師のことで、当時の法師は新羅系の仏教・道教の呪術者として知られていた
宇佐氏と辛嶋氏と大神氏。三氏族の神々
 「八幡神」という名の由来は、『八幡宇佐宮御託宣集』に「辛国の城に、始めて八流の幡と天降って、吾は日本の神と成れり」と書かれているように、八流の幡を立てて降臨を仰ぐ儀式を行ったからと考えられているが、最初から「八幡の神」と言われていた訳ではないようだ。
 この神を信じ儀式を執り行ったのは、前述のように新羅系渡来集団(秦氏系)だった。彼らは、田川郡香春町から居住範囲を徐々に東に拡大し、その中の一氏族である辛嶋氏が5世紀末までに宇佐に至ったと考えられている。
 宇佐には長く宇佐地方で栄えた豪族宇佐氏がおり、自分たちの氏神「比売大神(ひめのおおかみ)」を祀っていた。ご神体は現在の宇佐八幡宮と同じ、御許山(おもとさん)だった。
 宇佐にやってきた辛嶋氏は、当初、宇佐の中心部から離れたところに拠点を置き、ご神体を御許山から西に10kmほどの稲積山とした。しかし、雨乞いなどの呪力の差ゆえか、徐々に勢力を拡大し、宇佐氏の御許山信仰を圧倒してそれを取り込み、宇佐独特の宗教風土を形成したと考えられている。その後、527年の磐井の乱に加担した宇佐氏は6世紀半ばまでに急速に衰え、宇佐から姿を消した。
 宇佐氏が去った宇佐地方にやってきたのが、大和朝廷から派遣されたと考えられる大神(おうが)氏だった。大神氏はその名から推察できるように奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)の神職の氏族。大神氏はすぐに辛嶋氏を圧する存在となり、その後の展開は844年(承和11年)の日付をもつ『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』に書かれている。
新羅神+比売大神+応神霊=八幡神か?
 『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』には、大神氏系の伝承と、辛嶋氏系の伝承の二通りの縁起が載っており、その内容の性格の違いから、2つの氏族の関係性も浮かんでくる。
 大神氏が宇佐に移ってくると、すぐに辛嶋氏を圧するようになったようだ。このことからも大神氏の宇佐入りは朝廷の息のかかった動きであり、だからこそ威圧しながら協力関係を構築することができたと考えられる。そして、ついには宇佐氏の神を取り込んだ辛嶋氏の神に、応神天皇霊を付与することに成功したようだ。
 その応神霊を辛嶋氏が祀る神に付与した時期だが、『縁起』に従うなら590年(崇峻3年)頃となる。この事に関して辛嶋氏側からはかなりの抵抗があったことが、「(大御神の御心が荒れて)五人行三人殺二人生、十人行五人殺五人生給」という辛嶋氏系『縁起』の文章からも読み取れる。そして、そのような大御神の心を和ますのに3年にわたる祈祷が必要だったと記されている。
 大きくまとめると、新羅系渡来氏族である辛嶋氏が祀る神が、宇佐氏が祀る「比売大神(ひめのおおかみ)」を取り込み、そこにさらに大神氏主導(朝廷の要請?)で、辛嶋氏の反発がありながらも応神霊が付与され「八幡神」が誕生したということになるようだ。
八幡大菩薩となりパワーもより強力に
 解釈の仕方が幾通りもあり、疑えば切りがないのが由緒書きの類いで、それだけに“真実の由緒”を巡ってさまざまな説が登場する。中には820年の託宣によって神功皇后霊「大帯姫」が祀られ、その後に八幡神を応神天皇霊としたという説もある。
 8世紀に入る頃には6世紀に没落し息を潜めていた宇佐氏も再興。大神氏と提携する関係になり、辛嶋氏とともに八幡宮三神職団を形成した。さらに強力な呪力を持つ法蓮という僧が登場し、720年の隼人征伐で八幡神と力を合わせ勝利に導いたといわれ、八幡信仰の神仏習合はより一層強化されていった。
 そして、奈良時代末期の神護景雲年間(767~770年)に八幡神への菩薩号の奉献が行われ、ついに「八幡大菩薩」となった。神が仏教に帰依し、菩薩となることで、より強力な救済と護国の力を得たと考えられた。
 平安時代に入ると、台頭してきた藤原氏、特に藤原良房の篤信を得て、860年(貞観2年)に京都近くの男山に石清水八幡宮が成立。八幡信仰が全国に普及する大きな礎となった。
 平安後期に武士が台頭すると、八幡大菩薩は源氏の氏神として崇められ、八幡太郎を号した源義家が武功をあげ、その後頼朝が鎌倉幕府を開くと鎌倉に鶴岡八幡宮を創設。八幡大菩薩は広く武家の守護神として全国に広まっていった。
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