対馬全カタログ「歴史」
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2021年2月7日更新
金田城跡
【かなたのきあと】
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対馬最大の史跡は
防人たちが命を張った
古の国防最前線
唐・新羅から日本を守るために
 660年、朝鮮半島の一国・百済を守るために、唐と新羅の連合軍と戦い、 白村江の戦いで大敗した倭国は、唐・新羅の侵攻を恐れて防衛システムを構築した。一つは通信システム。昼は狼煙(のろし)で、夜はたいまつを使い、情報をリレーするシステムで、そのための烽火台を見晴らしのよい山の頂などに設置した。
 最も朝鮮半島に近い烽火台が対馬市上県町の千俵蒔山と言われている。敵と判断できる不審な船団を発見すると、そこから御嶽、大山岳などの対馬の山々を経て、壱岐にリレーし、さらに太宰府、瀬戸内海各所を連係し、敵の侵攻を大和朝廷に伝える。そのために対馬では1日中、朝鮮海峡を監視しなければいけなかった。
 そして、もう一つのシステムが、「城」と「防人(さきもり)」だった。
金田城の建設地特定論争
 大和朝廷は、対馬から大和(奈良)までの要所に城を設け、有事に備えた。防衛線は、対馬ー壱岐ー太宰府ー長門城ー?ー鬼ノ城※ー屋島城ー高安城とつながり、九州の拠点には東国の兵士を防人として置いた。
 対馬に造られた城は『日本書紀』に金田城(かなたのき)と記されているのだが、長くその場所が特定できずにいた。対馬では江戸時代から識者が持論を述べており、大きくは二つの説に集約された。一つは小茂田の「金田原」という説、そしてもう一つが「城山(じょうやま)」という説。郷土史家の間ではなかなか結論を出せなかったが、1962年(昭和37年)に城山の城跡が金田城跡として長崎県の史跡に指定されるのをもって、この議論に終止符が打たれた。

※岡山県総社市の「鬼ノ城」は、『日本書紀』には書かれていないが、遺構から7世紀後半(金田城とほぼ同時期)の城ではないかといわれている。
浅茅湾西側から見た城山。まさに天然の要害
生き延びるための朝鮮式山城
 城山は標高273m、北側と西側に峻厳な岩壁をもつ、対馬では珍しい岩の山だ。見るからに攻めるに難しいと、敵を圧する山容だ。この天然の要害を利して、自然の断崖に加え全長2.4kmの城壁を巡らし、城内を囲んだ。
 このタイプの山城は、前線で敵を迎え撃つための砦ではなく、後方の住民を収容して保護するためのものだという。籠城して敵が通り過ぎるのを待つか、救援を待つということだろうか。金田城の場合、城内に収容できたのは、その当時鶏知に住んでいた国司や官人、その周辺の島民ということになるのだろう。
 元寇をモチーフにした漫画『アンゴルモア』では第5巻から、最後の砦として金田城が登場する。鉄壁の守りでモンゴル軍の攻撃をはね返すのだが、味方の裏切りで敵の侵入を許してしまい、城内に立て籠もったほとんどの人間が殺されてしまうというストーリーで、生き残った主人公たちが新しい対馬をつくっていくというエンディングだった。
 しかし、幸いにして、現実世界では金田城が戦いに使われることはなかった。
「最強の城」めぐりは、山登り覚悟で
 NHK総合テレビで不定期放送されている『あなたも絶対行きたくなる!日本「最強の城」スペシャル』の第4弾で、金田城が「日本最強の城」に選ばれた。エントリーした江戸城、丸岡城、竹田城など全国7か所の城の中での1位だが、古代の山城が多くの日本人に注目されたこと、対馬に関心を持ってもらったことに意義があった。
 既に多くの観光客を魅了している金田城だが、他の戦国時代に建てられた城をめぐる観光と大きく違うのは、その巨大さだ。“城めぐり”ではあるのだが、“山めぐり”というのが実感に合っている。ハイキングをイメージした方がよいかも知れない。靴もトレッキングシューズがもっとも適しているし、全体を巡るのであれば、飲み物必携だ。また、迷いやすいところや傾斜の急なところもあるので、注意が必要だ。付近にはトイレがないので、鶏知などでトイレも済ましておきたい。
登山道入口横の案内地図 (木漏れ日の映り込みあり)
防人たちが歩いた道を歩いてみる
 登山道入口からしばらくは幅の広い道をゆっくり歩いていくことになる。この道は明治時代の軍道で、頂上の城山砲台まで物資を運ぶために整備された。視界が広がりしばらく行くと、斜面を下に伸びる石垣が目に飛び込んでくる。これが南東角石塁。ここから降りていくと三ノ城戸に出て、さらに進むと防人住居跡、二ノ城戸、一ノ城戸に出る。
 一ノ城戸からは、海の方に降りて、大吉戸神社に行くのもいい。大吉戸神社は、大城戸神社と書かれることもあり、この神社は城戸の守り神であったとも言われている。
 また、別ルートで、東南角石塁を眺めてからそのまま軍道を歩き、南西部石塁を経て山頂に至るコースもある。山頂からの西浅茅湾の眺めはすばらしく、天候に恵まれれば韓国が見えることもある。他に、石塁に沿ってほぼ一周するコースもあるが、急傾斜のところもあるので健脚向きで、ゆっくり回ると4時間ほどかかる。
東南角石塁(2007年撮影)
東南角石塁下部(2007年撮影)
一の城戸(2007年撮影)
三ノ城戸
大吉戸神社の鳥居
防人悲哀
 防人は、東国の豪族が編成した軍隊の兵士から徴集された。兵士と言っても農民がほとんどだった。大和朝廷は彼らの強さを頼りにするとともに、監視の目が行き届かない東国の豪族たちの力を削ぐという目的もあったというのが通説だ。
  任期は原則3年だが延長されることがよくあり、食料や武器は自前だった。任地では自給自足となる(但し対馬は耕す耕地が少ないので、九州から食料を輸送した)。さらに兵士の地元ではその間の税が免除されることもなく、送り出した家族にとっても大きな負担で、離散することもあったようだ。 任務が終るとその場で解散、帰途の路銀ももらえず途中で野垂れ死にする者も少なくなかったという。
 『万葉集』の防人の歌には、そんな彼らの望郷の念が込められている。
 防人の規模だが、毎年九州には2000人ほどが入ったようだ。任期が3年とすると、常時6000人程度が九州沿岸の防衛にあたっていたことになる。その内100人前後が最前線ともいえる対馬に赴いたそうだ。
 757年以降、九州本土では地元徴用に変ったが、対馬は防人が守った。その後一時的に九州の兵が対馬の守備についた時期もあったが、再度防人が担当させられ、10世紀になって武士団の台頭ともに防人制が消滅まで続いた。末期の防人は対馬人が担ったという説、その対馬人は定住した防人という説もある。
城山頂上からの浅茅湾の眺め
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