清水山城は豊臣秀吉による朝鮮侵攻のために、「文禄の役」の前年となる1591年(天正19年)に完成。秀吉が朝鮮に渡る際の、対馬滞在の居城となる金石城を守る城として築かれたと言われている。
対馬島主宗義智は、朝鮮侵攻を止めるために朝鮮との間にたって右往左往の交渉を行ったが、その努力が実らず、無念の気持ちを持ちながら築城の指揮にあたった。その気持ちはいかほどのものだっただろう。
1592年(文禄元年)春に日本軍は釜山に上陸した。対馬からの従軍は約3000人だが、兵站や通訳、案内に男手をとられ、16~60歳の男子は、対馬から消えたといわれている。対馬に渡ってきた兵たちは、島の女たちに乱暴をはたらいたり、食料を盗んだり、特に韓国に近い上対馬の村々は散々な目にあった。
秀吉の死によって2回目の侵攻「慶長の役」はすぐに中止、撤退となったが、終戦後の対馬は、荒廃した状態からのスタートだった。清水山城は使われることもなく、対馬が観光に力を入れるようになる20世紀後半まで、対馬の人たちからも忘れられた史跡だった。