対馬全カタログ「観光」
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2021年2月7日更新
清水山城跡
【 しみずやまじょうせき 】
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厳原を見下ろす天空の城は
秀吉の朝鮮侵攻を
今に伝える歴史の証人
秀吉の渡朝に備えての築城
 清水山城は厳原市街の北、厳原八幡宮の後にそびえる標高219mの清水山の頂上付近に築かれた安土桃山時代の山城。1984年(昭和59年)指定の国指定史跡であり、登山道が整備されている。
 豊臣秀吉による文禄・慶長の役で、出兵拠点である肥前名護屋城から、壱岐の勝本城を経て、朝鮮半島へと連なる兵站線の重要拠点となる厳原(当時は府中)を、そこに滞在するであろう秀吉を守るために、1591年(天正19年)に築かれた。築城は、対馬島主の宗義智が主力となり、相良長毎(肥後人吉城主)、高橋直次(筑後三池城主)、筑紫広門(筑後福島城主)が助力したといわれている。
尾根に沿って伸びた細長い山城
 清水山城は頂上の一の丸(本丸)から南東尾根に沿い、二の丸、三の丸と配置された、その長さ600mの細長い城だ。清水山城の建築上の特徴は、一の丸から先端の三の丸までの尾根を石垣で固めていることだそうだ。
 標高206mの一の丸は東西約50m、南北約40mの楕円状で、城郭が周り、城門の跡と枡形、中央に櫓の基壇らしき石垣がある。二の丸は小さいが最も整備された曲輪だそうだ。三の丸は尾根にそって石塁が続き、櫓台のような石垣もあり、城門跡などが残されている。
清水山の尾根にそって伸びる清水山城跡
気軽に登れ、眺望が素晴らしい
 清水山城跡へは登山道も整備され、歩きやすいので、天候さえ気をつければ気軽に行くことができる。住宅街にも看板も設置されてるので迷うこともないはずだ。
清水山は有明山登山コースの途中にあるので、案内には「有明山」と書いてあったり「清水山城跡」と書いてあったりする。
 登山口からは階段になっており登りやすいが、途中から勾配が急になり足場も悪くなるのでしっかり溝のある靴で登りたい。一ノ丸までは30分くらい。一ノ丸、三ノ丸からは厳原の街並みや厳原港の眺望が素晴らしい。ただし、猪に出くわすこともあるので注意が必要だ。
三の丸から厳原港を望む
無用の長物と化した清水山城
 清水山城は豊臣秀吉による朝鮮侵攻のために、「文禄の役」の前年となる1591年(天正19年)に完成。秀吉が朝鮮に渡る際の、対馬滞在の居城となる金石城を守る城として築かれたと言われている。
 対馬島主宗義智は、朝鮮侵攻を止めるために朝鮮との間にたって右往左往の交渉を行ったが、その努力が実らず、無念の気持ちを持ちながら築城の指揮にあたった。その気持ちはいかほどのものだっただろう。
 1592年(文禄元年)春に日本軍は釜山に上陸した。対馬からの従軍は約3000人だが、兵站や通訳、案内に男手をとられ、16~60歳の男子は、対馬から消えたといわれている。対馬に渡ってきた兵たちは、島の女たちに乱暴をはたらいたり、食料を盗んだり、特に韓国に近い上対馬の村々は散々な目にあった。
 秀吉の死によって2回目の侵攻「慶長の役」はすぐに中止、撤退となったが、終戦後の対馬は、荒廃した状態からのスタートだった。清水山城は使われることもなく、対馬が観光に力を入れるようになる20世紀後半まで、対馬の人たちからも忘れられた史跡だった。
二の丸と三の丸の中間付近
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