2021年5月4日更新
中矢来
【なかやらい】
約360年の時を超えて
江戸時代の船着き場は
当たり前のようにそこにある
中矢来とは堤防の名称だった
矢来とは、本来は竹や丸太を縦横に粗く組んで作った仮の囲いや、 湾曲した割り竹を並べて建物の壁や塀の下部を覆う背の低い柵のことだが、そこから堤防という意味に発展したのだろう。
1666年(寛文7年)に海岸を埋め立てた船着き場の沖に、波止として3本の堤防がつくられた。東側の短い堤防が「内矢来」、西側の久田道側の堤防が「外矢来」、その間に設けられた堤防が「中矢来」と呼ばれた。
中矢来は、長さ127m、幅7m、高さ4mの石積みの堤防で、矢来の内側は公用船の停泊地だった。
『厳原町誌』付録「(文化8年)対州接鮮旅館図」より
2021年の中矢来:内矢来はなく、外矢来や上り場のある西の浜は埋め立てられた
主に公用船の停泊に使用
矢来の内側の船だまりをいつの頃から「中矢来」と呼ぶようになったのかは定かではないが、藩主が参勤交代で江戸に向けて出発する時も、あるいは帰藩の時も、朝鮮通信使が来日した時も、船は中矢来に停泊した。
『厳原町誌』付録の「(文化8年)対州接鮮旅館図」に描かれているように、船の乗降は西側の岸「西ノ浜」で行われ、主に人の乗降に使う「上り場」と物の積み卸しに使う「物揚場」の2カ所の階段があった。
厳原港の整備にともない、外矢来と中矢来(堤防)の間と、中矢来外側が埋め立てられ、さらに1972年(昭和47年)には、西ノ浜と東の浜を結ぶ厳原大橋が設けられ、厳原港の景色は一変した。
また、船だまり周辺の石垣も、一部は土地拡張のためにコンクリートで上塗りされたり、岸壁ぎりぎりまで家が建てられ、昔の風情はあまりないが、石垣自体は昔のままだ。
これが中矢来(堤防)の石垣。今はその上が道路になった
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