対馬全カタログ「観光」
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2021年2月7日更新
阿連の洞門
【 あれのどうもん 】
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村人の安全を願い
黙々と掘り続けた石工の
意地と情熱のトンネル
隣村までの海沿いの道を安全に
 舟による輸送や移動がメインだったかつての対馬でも、天候やさまざまな事情で陸路を選ばなければならないことがあった。そんな時、厳原町阿連の人々は4km離れた隣村の小茂田(こもだ)まで、山を越えるのでなく海岸線を歩いた。
 ただ1カ所だけ険しいところがあり、子供や老人は難儀した。それを見かねた一人の石工がノミとツチだけでトンネルを掘り始めた。今風に言えば、ボランティアだ。その精神は弟子に受け継がれ、さらに阿連の人々も協力するようになり、1932~1933年(昭和7~8年)頃に「阿連の洞門」は完成した。石工の名は田代□□さん。弟子の名は山崎長吉さんだ。
「青の洞門」と「阿連の洞門」
 洞門と言えば、菊池寛の小説『恩讐の彼方に』に描かれた「青の洞門」。実話の方は1700年代半ば、旅の僧が村人のために約30年かけてトンネルを掘る話だが、対馬にもあの僧と同じような人がいたということだ。トンネル部分の長さは、「青」の144mに比べると「阿連」の方は50m弱と短いが、思いは同じだったに違いない。
 「青」は30年もかかったが、「阿連」はどのくらいかかったのだろう。資料がないから確かなことは言えないが、その規模と棟梁と弟子の2代にわたったプロジェクトということから推察すると、10年以上はかかったのではないだろうか。
新観光スポットに「阿連の洞門」
 現在、「青」の方は、車が通行できるほどに拡張され、貫通当時の景色ではなくなったようだ。一方、「阿連」の方は1955年(昭和30年)頃に山を越える道路が整備されるまでの20数年間、阿連の人々の大切な道として利用され、役目を終えた。
 その後、中央部付近が崩落して洞門が2本に分かれてしまい、当初の姿ではなくなってしまったが、現在「阿連の洞門」と呼ばれ、観光スポットとして注目されるようになった。
小茂田側(南側)から
阿連側(北側)から
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