舟による輸送や移動がメインだったかつての対馬でも、天候やさまざまな事情で陸路を選ばなければならないことがあった。そんな時、厳原町阿連の人々は4km離れた隣村の小茂田(こもだ)まで、山を越えるのでなく海岸線を歩いた。
ただ1カ所だけ険しいところがあり、子供や老人は難儀した。それを見かねた一人の石工がノミとツチだけでトンネルを掘り始めた。今風に言えば、ボランティアだ。その精神は弟子に受け継がれ、さらに阿連の人々も協力するようになり、1932~1933年(昭和7~8年)頃に「阿連の洞門」は完成した。石工の名は田代□□さん。弟子の名は山崎長吉さんだ。