対馬全カタログ「生き物」
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2021年5月9日更新
対州馬
【 ウマ目・ウマ科 】
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切手にもなった。
かつて対馬を代表する
生き物は対州馬だった
対馬が誇る日本在来馬
 1970年(昭和45年)に壱岐対馬国定公園の記念切手になった図案は、浅茅湾をバックに、対州馬(たいしゅうば)と伝統的な野良着「はぎとうじん」を着た「豆酘娘(つつむすめ)」が並んだ絵だった。50年後の令和であれば、今や空港名にもなっているように「ツシマヤマネコ」が取り上げられそうだが、当時は対州馬だった。
 対州馬は、道産子(どさんこ)(北海道)、木曽馬(きそうま)(長野県)、宮古馬(みやこうま)(沖縄県)などとほともに日本在来8馬種の一つ。日本在来馬は、中型馬(3種)、小型馬(4種)に分類されるが、対州馬は中型と小型の中間と言われている。
壱岐対馬国定公園記念切手(1970年発行)
日本在来馬の源流、対州馬
 日本在来馬といっているが、そもそも日本には馬はいなかった。日本に馬が入ってきたのは、5世紀頃といわれており、日本各地で5世紀のものと鑑定される馬の骨が発見されている。
 その頃の朝鮮半島は、高句麗と新羅と百済の三国時代。ヤマトと関係のよかった百済から船で運ばれてきたと考えられている。対馬はその最初の上陸地であり、日本最初の馬は対州馬というのは納得できる話だが、科学的にもそれが明らかになったようだ。
 日本在来馬8品種と世界の32品種のDNAを比較すると、日本在来馬は、モンゴル在来馬の祖先が対馬を経由して輸入され、全国に広がったと考えられるそうだ。まず対州馬と野間馬(愛媛県)が分岐し、ここから北海道まで北上するグループと、沖縄まで南下するグループに分かれたという。
日本在来馬のDNA系統樹
明治時代の西洋馬との掛け合わせを経て
 明治時代になると、優れた軍馬を産するために、日本在来馬は西洋馬と掛け合わされ、品種改良が行われた。用途に応じて選別され、軍馬としては大きな馬が、対馬では山の斜面でよく動く、小さな馬が好まれたようだ。
 ウィキペディアによると、対州馬の体高は107~136cm。オスは平均127cm、メスは平均125cm程度となっている。大型馬のサラブレッドは160~170cm。改良前(数世紀前)のサラブレッドの平均体高が152cmといわれており、それと比べてもかなり低い。
 サラブレッドを見慣れた現代人には頼りなく映ってしまいがちだが、在来馬には在来馬ならではの、対州馬には対馬の馬ならではの良さがある。
かつての対馬の暮らしに最適な馬
 対州馬は胸幅が狭いので、子どもや女性、小柄な人などにも乗りやすく、つまり誰でも扱いやすく、さらに細い山道でも動きやすい。また、日本在来馬全般にいえることだが、坂道の歩行に適した側対歩(速歩の時に右側の前後肢がペアに、左側の前後肢がペアになる歩法)を自然に覚えるという。
 性格は穏やかで従順。乗馬の際にもハミをくわえさせず、無口頭絡に手綱一本を結び付けるだけだったらしい。つまり、操作に従わすというよりは、促すだけで指示に従った。
 粗食にもよく耐え、蹄が固く装蹄を行わなくても重い荷物、 通常130~150kgの荷物を運ぶことができるそうだ。とても使い勝手のいい馬で、農耕馬や、木材・農作物・日用品などの運搬用の馬として活躍した。
小茂田から厳原市街に、馬に荷を載せ行商にきたのだろうか (写真提供:渡邊菓子舗)
対州馬減少、絶滅にストップを!
 対馬の暮らしには欠かせなかった対州馬だったが、農業人口の減少、自動車や耕運機・トラクターなどの普及により、飼養頭数は急激に減少。明治時代には4,000頭いたらしいが、1952年には2,408頭、1960年には1,884頭、1970年654頭、1980年148頭、1995年70頭、2000年29頭、2005年には25頭まで減った。飼養者の高齢化も減少要因の一つらしい。
 対州馬激減の危機感はかなり以前からあった。1972年には、対州馬の保存活動の中心となっている「対州馬振興会」が発足。1988年、美津島町が対州馬の飼育事業をスタート。当時有人離島だった島山島に対州馬牧場を設け、保存・増殖を図った。
 牧場では当初9頭だった対州馬を47頭にまで増やしたが、頭数が増えたことで財政上の負担が大きくなっていたこともあり、「里親」を募集。1997年、12頭が県内外の牧場や幼稚園に譲渡された。その後、残った馬たちは、島山島から「あそうベイパーク」(美津島町内の自然公園)に移された。
あそうベイパークの飼育施設(2003年)
対馬の草競馬「馬跳ばせ」、復活
 上県町瀬田地区で明治時代から、初午祭(男の子の初節句の行事)の余興として、対州馬による草競馬「馬跳ばせ」が行われていたが、出走する対州馬がいなくなり、1960年代後半から途絶えていた。
 2002年7月、町おこしと対州馬の保存につなげようと、町と地元有志による初午祭実行委員会が、目保呂ダム上流の公園を臨時の馬場として「馬跳ばせ」を復活させた。好評を博したことから、対馬初午祭は恒例行事化され、現在は10月の第3日曜日に開催されている。
「目保呂ダム馬事公園」誕生
 2004年3月に対馬市が発足すると、市では目保呂ダムの公園を「目保呂ダム馬事公園」としてリニューアル。2006年2月より、馬事公園では「対州馬ふれあい体験」として乗馬体験、曳馬体験を実施している。
 2019年、対馬市は対州馬を市天然記念物に指定。2020年には対州馬保存・活用のために、島おこし協働隊の一員として幅広い活動が期待できる獣医師を招請。新たな調教師も着任し、1年間休止していた乗馬体験が再開され、後進育成の環境も整った。さらに2021年には調教補助員の一人として動物看護師も加わり、対州馬を守り活かす態勢が強化された。
 2021年4月時点で、島内で39頭。目保呂ダム馬事公園では23頭が飼育されている。
目保呂ダム馬事公園
馬事公園全景
厩舎
保全に欠かせない「遺伝的多様性」を
回復させるために
 対州馬は、かつて西洋馬(アングロアラブ)と交雑したことによる遺伝浸透が原因で、十分な保全の対象となっていない(かろうじて市が天然記念物に指定したが)。そこで対州馬保全のために、対州馬の遺伝的多様性と遺伝浸透の状態を調べる研究が行われた。
 2017年に発表されたその研究では、遺伝浸透は他の在来種と同じように極めて限定的であるものの、他の在来馬品種に比べて遺伝的多様性が低く、その回復が急務であることが明らかになった。そのためにはまず個体数を増やすことが重要だそうだ。
 そこで今できることの一つとして、島外に移出した対州馬と掛け合わすことが検討されている。
対州馬を対馬の宝にするために
 1950年代以降、農耕や運搬という目的、価値を失った日本在来馬は、大きく頭数を減らし、絶滅直前まで追いやられた。保全には存在価値を確立することも欠かせない。
 獣医師かつ対州馬保存・活用支援担当として就任した吉原知子氏は、対州馬保全のために、まずその価値の創出をめざしている。
 2020年に「SDGs未来都市」に選定された対馬市の提案タイトルは「自立と循環の宝の島~サーキュラーエコノミーアイランド対馬~」だが、その長期的な実現のためには、ESD(Education for Sustainable Development:持続可能な社会を開発する人材を育む)教育が欠かせない。その島内でのESD教育の一つのプログラムとして「対州馬との共生」が活用できるのではないか。
 また、対州馬の温順な性格を生かしたホースセラピーは、これからの社会に欠かせないピース(一片)になるのではないか。そしてうまくいけば、対州馬ならではの価値を生み出せるのではないだろうか。
 それは対州馬を対馬の宝の一つにすることに他ならない。保全に向けての新たな挑戦はスタートしたばかりだ。
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